余市町でおこったこんな話 その127「竹鶴さんを支えた人々(その2)」

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「樽つくり五十年」と題した人物紹介記事が、昭和40(1965)年10月の新聞記事に見えます。ニッカウヰスキーの樽作り名人、小松崎与四郎さんがその人で、竹鶴さんとの出会いや樽作りの苦労が語られています。
小松崎さんはニッカでの樽作りにたずさわる前から、製樽業を生業とされていて、この記事が掲載された年にはすでにこの道50年のベテランでした。小松崎さんが横浜のキリンビールでビール樽作りの仕事に関わっていた昭和の初め頃、横浜にあったカスケードビール(後述)の工場長だった竹鶴さんに声をかけられて、同工場でも仕事をするようになりました。その後、竹鶴さんが北海道に行くことになった時に誘われたのが、ニッカウヰスキーとの縁の始まりだったそうです。冬を越すには北海道は「寒くてやりきれん」ので、11月には「内地」へ戻っていましたが、5、6か月も働けば十分食べられるだけの貯金ができたそうです。
国産ウイスキーが登場する前はウイスキー樽を作る人がおらず、外国から輸入する白ワインやシェリー酒の樽の実物を見て独学で学んだそうです。戦争が始まると輸入物の樽探しはたいへんで、竹鶴さんにたのまれて神戸まで探しにいったこともありました。また樽作りは頑張っても月に70、80個くらいしか作れず、輸入する古い樽が修理されて使われました。
樽作りのたいへんさを振り返った氏の言葉です。
「材料の吟味という点ではこっちの方がずっとすぐれている。ここで作っている板を見てくれ。ほら木口に細かい木目が見える。これをカシメというが、これが上の木口から下の木口までずうっと切れずに続いていなければならない。これが途中で切れていると、そこから原酒が浸透して、木口へ黒くにじみ出してくる…(中略)…これはたいへんこわい仕事だね」
ニッカウヰスキー創業50年を迎えた昭和59年2月25日、余市郷土研究会の第21回史談会がニッカ会館で開かれ、ニッカの元社員の牛尾元市さんが草創期のことを語ってくれました。この史談会の様子が同月28日の『北海道新聞』に見えます。
牛尾さんは当時88歳、創業時を記憶する「工場生き残り」は瓶詰めを担当していた牛尾さんお一人になっていたと記事は伝えています。
牛尾さんと竹鶴さんの出会いは、横浜市鶴見区にあったカスケードビール工場でのことでした。寿屋(後のサントリー)は業務拡張のために、このビール工場を買収します。新しいビール工場長として寿屋から派遣されたのが竹鶴さんでした。
宣伝上手の鳥井社長は、当時の首相、田中義一政友会総裁が“ オラガ大将”と異名されていたのに便乗、カスケードビールをオラガビールへ改称し、「これが当たって、売れて売れて」だったそうです。
また牛尾さんによると、寿屋を退社した竹鶴さんが、一緒に余市へ来ないかと誘ったので余市へ行くことにしたそうです。工場の歴史の記録について牛尾さんは「一切が竹鶴さん次第。だから創業当時からの会社資料はない。皆死んでしまった今、自分で覚えていることぐらいメモしておこうとは思っているが」と語っています。
思い出話から伝わる竹鶴さんのお人柄は、人をひきつける魅力的なものでした。

写真:新樽の内側をなでる小松崎さん(昭和40年10月10日付新聞記事より)

写真:新樽の内側をなでる小松崎さん(昭和40年10月10日付新聞記事より)

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