余市町でおこったこんな話 その118「竹鶴さんを支えた人々(その1)」
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竹鶴さんのウイスキーづくりの最初には、大阪にあった摂津酒造の阿部社長さんの後押しがありました。スコットランド留学を終えて帰国した竹鶴さんはすぐに「本格モルト・ウイスキー醸造計画書」を作りましたが、国内は世界的な不況の影響を受けていて、厳しい状況でした。
竹鶴さんは「(工場新設をあきらめて)今の工場のあき地にポットスチル(蒸留機)をすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる、それでいいからなんとしてでも、やらせてほしいと頼み」ましたが、同社の重役全員から反対されました。阿部社長は竹鶴さんを応援しましたが「社長は竹鶴に甘すぎる」と言われるほど周囲の反対は強く、同社でのウイスキーづくりをあきらめた竹鶴さんは大正11(1922)年に辞表を提出して、摂津酒造を去りました(『ウイスキーと私』)。
同じころ、寿屋(サントリーの前身)は、明治41(1908)年に発売を開始した赤玉ポートワインが順調に売り上げをのばし、同社社長(当時)の鳥井信治郎さんはその勢いに乗って、本格的なウイスキーをつくることを考えました。前掲書中には、浪人生活を送っていた竹鶴さんを勧誘された鳥井さんの言葉があります。
「赤玉ポートワインが順調に売れているので、どうしても本格的ウイスキーをやってみたい。三井物産に話してスコットランドから技師を連れてくるつもりであったが、向こうから逆に“日本にいい技師がいる、しかも日本人だ”といわれて君のところに飛んできた」
同12年6月に寿屋に10年間の約束で入社した竹鶴さんは、この頃にはすでにウイスキー作りの理想の地は北海道であると考えていて、鳥井社長にもその考えを伝えましたが、鳥井さんは大阪に近いところに蒸留所をつくると考えられていて、蒸留所は大阪の山崎に決まりました。神奈川県にあった同社のビール工場の工場長も兼任した竹鶴さんは、10年間の契約期間を過ぎた昭和9(1934)年3月に寿屋を去りました。
今度こそ理想のウイスキーを作るべく、北海道での工場建設のために10万円の資金を用意しましたが、それには大阪府山崎での竹鶴家近くに住んでいた加賀正太郎さん、竹鶴さんが帰国して住んだ大阪府帝塚山の芝川又四郎さん、スコットランド時代からの知り合いだった柳沢保恵さんそれぞれの協力がありました。
加賀さんはニッカウヰスキーの筆頭株主だった時期もあり、同氏の奥さんがリタさんから英語を習っていた時期もありました。
芝川家は土地経営を広く扱った資産家で、竹鶴家と家族ぐるみの交流がありました。平成19(2007年)7月、芝川家が昭和2年に建てた芝川ビル(大阪市中央区、国の登録有形文化財)の地下金庫室から木箱に入った1ダースのニッカウヰスキーが見つかりました。戦中か戦後間もなくに製造されたウイスキーで、株主への配当品と思われるものだそうで、ニッカウヰスキーの博物館にその写真が展示されています。
写真:芝川ビル地下金庫室で発見されたウイスキー(ニッカ博物館)
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