余市でおこったこんな話「その242 ナシ」
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果樹栽培の歴史の中でナシの記録は古く、享保年間(1716~1736)に道南の大野村(現北斗市)にナシが植えられていたことが伝わっています。天明元(1781)年の『松前誌』にも「文月なしを美味である」(文月は旧暦の7月)とあり、道南では古くから栽培されていた果物だったようです。
ナシの栽培はこれまでも何度か紹介したプロシア人ガルトネルの七重(現七飯町)の農場において、幕末にはすでに行われていました。明治になって開拓使が同地に設けた七重官園には、輸入苗のナシが282本あったことがわかっています(明治6(1873)年)。
アメリカから苗が運ばれた東京官園に、明治5年には1,000本のナシがあり、これが結実したのは明治8年のことでした。
札幌官園には明治9年時点で2,626本あり、寒波やウサギ、ネズミの被害にあうなどしましたが、明治12年に10本余りの木に実がなりました。
明治末から大正にかけての品種をみると、洋ナシのうち早生は「デイヤボーレスシードリング」、「ブランデーワイン」、中生では「日面紅(ひめんこう)」、「ウインターネリス」、和ナシのうち早生は「早生赤」、中生では「泰平」、「長十郎」、晩生では「細口」がありました。
明治30年代、これらの品種とは別のナシ3種が、町内で催された品評会に出品されました。その中のひとつは町内で果樹栽培をされていた方のお名前を冠した「相内梨」というナシで、ご本人いわく「自宅裏の川の辺に生じた実生の梨苗があったので育ててみたところ、この果実をつけた」そうです。
もうひとつは「相内梨」と同じ品種で、それよりも古い木が沢町にあって、中国大陸のものではないかという話になりました。
3つめのナシは「飯田梨」と呼ばれ、山道村(現在の豊丘町、当時は大江村内)の飯田果樹園にあった木から結実したもので、中国大陸産のものと思われました。これと同じナシが明治40年代に札幌の果樹園、興農園から「千倆(せんりょう)」という名前で売り出され、大正時代に開かれた果樹苗木の販売会では同じナシの苗木が「身不知(みしらず)」という名で売り出されました。
飯田果樹園ではもうひとつ、中国起源と思われる「丸形身不知」と呼ばれるナシがありました。中国原産と思われる3種のナシが余市町で栽培されていた理由を、町内山田村(当時)の果樹園主さんが次のように述べられています。
「明治二十年代に、梅川町の浜谷という人がいて水車業(水力で脱穀などを行う)を営業していた。この人の弟が、中国の領事館に勤務していたということを聞いている。おそらくこの弟が、中国の穂をもってきたか、あるいは送ってきて余市に入ったと思われる。そのご浜谷という人は、水車を猪俣という人にゆずり、よそへ行って消息がわからないため、確かめることができないのが残念です。」
豊丘町に伝わるお話では、ナシ作りのはじまりは、佐藤東吉さんという方が住んでいたところにあった中国原産の大きなナシの木とされています。
「東吉さんが風邪のため寝込んだ時、青森の親元から、お見舞いにナシを持ってきてくれた。それがうまくて、うまくてたまらず、玉も大きいのでその種を植えた」
大正時代に「身不知」「千倆」と命名されたナシはその後、千両梨として流通しました。
▲ 写真 千両梨(JAよいち提供)
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