余市でおこったこんな話「その225 詩人 和田徹三 その1」
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博物館の前庭に和田徹三詩碑があります。
「このどす黒い 冬の海のどこかに 夏の色がかくれているはずがない」で始まる「海 故里の海に寄せて」という詩文が書かれています。
詩人で英文学者の和田徹三さんは、明治42(1909)年8月に余市町大川町の醤油味噌醸造を営む和田家の三男として生まれました。大川尋常小学校へ入学しましたが、3学年終了後に小樽市へ転居、小樽量徳尋常高等小学校に転校、小樽中学校(後の小樽潮陵高校)に進学し、昭和6年に小樽高等商業学校(後の小樽商大)を卒業しました。
翌7年、詩誌『哥(か)』を創刊、同10年には自身初の詩集『門』を発表、戦前戦後を通じて作品を発表し続け、「本道の代表的詩人」(『北海道文学大辞典』)とされます。北海道薬科大学教授をつとめ、英語を教える傍ら、児童文学、合唱曲作詞、翻訳と多彩な活動をされた方でした。
ご自身が著された『冬の鏡』に、少年和田徹三の成長が描かれています。
小学校に入学後、成績が振るわず、優秀な兄の通信簿(通知表、あゆみ)と比較されて、小言を言われることが恐ろしく、容姿が美しい家族の中でコンプレックスを抱いていた少年でした。
「私は学校が嫌いであったので、成績も悪く、一年生の時の通信簿は毎学期乙(いまの五段階評価法では3であろうか)ばかり、二年生になってから、作文と唱歌だけが甲で、それがしばらくつづいた。当時母は「幼年世界」という月刊雑誌を買ってくれ、これを読むのが楽しみであったが、教科書を家で開いたことはなかった。そういう訳で、学期末がくると、兄の全甲通信簿と比較され、小言を並べられるので、恐ろしくてならなかった。私は自分でも兄弟の屑だと思っていた。まず風貌であるが、兄も弟たちも美男子であった。」
中学生になった和田少年は勉強とスポーツに打ち込み、家族への思いやりを持つ人に成長していきます。
「中学生になってから、私はよく勉強するようになった。上級学校に入らねば意味がないと思ったからである。一年生の時にテロントという渾名(あだな)の園田先生に英語を習った。教え方がうまく、発音がきれいであった。この人のお蔭で英語が好きになった。苦手の数学も無理に組伏せて、逆に得手にしてしまった。しかし勉強ばかりしていたのではなく、水泳もやった。試合には出されたことはなかったが、短距離を得意としていた。
また、お小遣いをためておき、時々「日本少年」という雑誌を買った。ここに有本芳水の詩がのっていた。私は芳水の詩が好きで暗誦できるほど何度も読んだものである。その真似をして音数律の詩らしいものを書いてみたこともあった。その頃、だんだん腰のまがってきた祖母を見て、二度と心配はかけまいと思った。そして祖母を大切にして一日も長く生きていてほしいと願った。口答(くちごたえ)などはしなくなり、毎夜寝る前に肩や腰をもんであげるようになった。」
詩人で英文学者となった和田さんの原点は、中学校で英語を学んだ園田先生と、自身が求めた雑誌で読んだ詩人との出会いだったようです。向学心と家族へのいたわりの心をもった少年は成長を続けます。
(つづく)
写真:和田徹三詩碑
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