余市でおこったこんな話「その229 山道と桐ケ谷峠」
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国道229号線の沢町2丁目(沢町信金さんの交差点)を沢町小学校方面へ向かい、紅志高校を過ぎると、道路がカーブになりながらヌッチ川を渡る橋があります。
橋の名前は「種谷橋」。幕末の文久2(1862)年に吉沢藤吉さん、テンさんご夫婦と息子の岩蔵さんが、東北の南部地方(現在の岩手県付近)から山道地区(現在の豊丘町)へ移住してきました。
この藤吉さんは「種屋」の屋号で種を販売する商いをしていて、ほかにもヌッチ川の渡しや宿屋の経営など手広く商いをされていた方で、明治時代の早い時期からこの屋号をとって付近の地名が「タネヤ」と呼ばれていました。またその頃のヌッチ川は「サケ、マス、イワナ等のほか、名も分からない魚がみちあふれ、水がみえないことさえあった」そうです(『豊丘町史』)。
外国からの船が来航してくるようになった幕末、ロシアへの警戒から蝦夷地の道路開削が急務と考えた幕府は、海路ではなく陸路で積丹半島を越える道の整備を急ぎました。工事は運上家の請負商人にゆだね、作業は商人によって派遣された番人やアイヌの人々の力で行なわれました。
余市から稲穂峠を越えて岩内と結ぶ道路の開削工事が、文化6(1809)年に行われ、山道と呼ばれました。その後、安政3(1856)年に再び整備工事が行われて、途中に小休所という休憩場所や、宿泊できる通行家もおかれました。2回目の整備を担ったのが、江戸出身と伝わる足軽(ふだんは雑役に従い戦の時には兵士となった者の意)の桐ケ谷太平衛さんで、その名前が余市と仁木とを結ぶ桐ケ谷峠にのこっています。
太平衛さんの名前が刻まれた鰐口(わにぐち)ものこっています。鰐口は神社の軒先にかけ、鉦の緒とよぶ布縄を垂らしたもので、参詣人はこの緒を振って鼓面を打って拝礼します。余市町琴平町の円山山麓(現富沢町)の旧稲荷神社から発見された鰐口は、どら焼きのように偏平円形で縦径約19cm、横径約21cm、厚さ8cm、裂口約2cm、鼓面には蓮華の草花文様が施され「文久三亥年正月吉日 願主桐谷太兵衛 ヨイチ運上家 同番人白鳥庄兵衛」と刻まれています(文久3年は1863年)。
太兵衛さんは余市詰めの足軽として、天保4(1833)年からヨイチ場所に滞在しましたが、安政6(1859)年に三男を亡くし、翌年には妻もこの世を去りました。太平衛さんはお地蔵様を遺し、それは道路開削の安全を祈願したもの、或いは工事に従事して不幸にして亡くなった方々の霊を慰めるためのものと伝わっていますが 、家族を亡くした太兵衛さんがその供養のために建立したものなのかもしれません。
江戸時代の余市町のことを記した林家文書中に、安政4年の稲穂峠のことが記されています。
余市側からの山道の道筋は険しい岩場が8、9ヶ所あって、大雨や大雪には人馬の通行が困難になること、また別の記録に、開削前の山道が「草木おいひしげけり流水道を遮りたる」程荒れていたこと、当時のヨイチやイワナイの場所請負人が「御国恩」のために切開いたことが稲穂峠の高札に書かれているというものでした。
明治2(1869)年には、伊藤清之助さんという杣夫(山に入って木をきる人)が小峠橋近くの砥の川に通ずる道端で、旅人を泊める宿を営んでいたので、明治以降も山道としての機能は保たれていたようです。
図:かつてブドー工場があった事務所棟
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