余市町でおこったこんな話「その220 余市駅(2)」
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余市駅の開業は、然別~蘭島間が開通した明治35(1902)年のことでした。明治34年の忍路トンネル工事を皮切りに工事が開始され、もっとも難工事だった倶知安~然別間の工事が終わった明治37年に函館本線が全線開通しました。
「余市駅は、最初大川町(現旭中学付近)に予定されていたのですが、時の道会議員徳光大次郎という方が、黒川の現在地一帯を買収、鉄道用地を会社に、無償寄付したために、現在地に変更になりました。
しかし、この辺はものすごい谷地(湿地)で、相当土盛りせねばならず、役場前の切り通しから、馬車や レールを敷き(土砂を)トロッコで運んだものです。
そのため、機関車に使う水が金気(鉄分)が多く使いものにならず国鉄も困ったということです。そして目先を利かした他町村の者は、大川方面の土地を買い占め巨利を得ようとしたのが、当てがはずれたということもありました。」
徳光大次郎さんは、浜中町にお住いだった漁業家で、赤井川村の開墾にも貢献した実業家でした。また魚種は不明ですが遠洋漁業の誘致を働きかけたり、「補助機関付帆船」を製造し、近海のタラ延縄やニシン流し網の事業を試みました。後に道会議員に当選し、水産物(道産?)を本州へ紹介するなど、水産業の発展に功績のあった方でした。この時の寄付は、ニシンなどの漁獲物を貨車輸送するためだったのだと思われます。
「北海道は籠(の価格)が高いので当初は粒(バラ)売りでしたが、大量に売れないのでレッテル(ラベル)を入れた網売り(安い荷造りの赤・青・黄の平紐を使った袋)にしました。これは明治三十八年頃からで一袋十銭、二〇銭、三〇銭、五〇銭とあり、私が元祖でした。この頃から余市リンゴは、ウラジオまで行くようになったのですからね」と駅売りを始めた旅館のご主人の回想がのこっています。
明治の終わり頃から大正まで、余市産リンゴがロシアへさかんに輸出されていた時期は、開業になった余市駅にも多くの水産加工品や農産物が集まって道内各地へ移出されました。水産加工品はなんといってもニシンで、春になると登川の登川橋(国道5号線をわたる橋)から駅前までの道路は馬車が行き来して泥道になって大混雑になりました。秋には余市町内、仁木町、赤井川村から農産物がいっせいに余市駅に集まりました。市街地化が進みそうな様子でしたが、春や秋のこうした混雑や、湿地がまだ多い状況だったことから、開業から7年ほどで移転の動きが見られました。
「明治四十三年七月七日余市停車場移転ノ請願書提出是レヲ町会(議会)ニ掛ケタル処議論種々ニ渡リタル…」と古い記録にあり、大混雑や荷物の搬出に不都合だったことから、かなり時間をかけた議論がされたようです。
結局、町会が出した結論は、今の位置のままで営業を続けるというものでした。
その後、大正9(1920)年になって、余市町は札幌鉄道管理局に駅舎改築の請願書を提出しました。
「余市駅ハ本町及古平美国積丹三郡ニ往来スルモノノ要駅ニ当リ昇降スル乗客多キ…中略…頗ル狭隘ヲ感ジ且ツ歩廊ノ設備充分ナラザルタメ雨天ノ節ハ雑踏スルノミナラズ衣服荷物ヲ汚損スル…」
とあります。苦情が殺到するために跨線橋を架け替えてほしいとのの請願だったようです。
開業後の跨線橋がどのようなものだったのかは不明ですが、写真の跨線橋は昭和10年代のものです。
写真:仮装行列(左端に渡線橋昭和10年代)
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