余市町でおこったこんな話「その219 志業永伝」

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黒田清隆は薩摩藩出身、幕末の戊辰戦争では新政府軍の参謀として従軍し、明治3(1870)年、明治新政府の樺太開拓使の開拓次官を経て、北海道開拓使の長官となります。黒田はアメリカからケプロンらを招いて進めた洋式農法の導入や、官営工場の設置、炭鉱の開発、屯田兵制度の創設などを行いました。北海道開拓の重要な人物と言えます。 

ニッカ沼近くにある開村記念碑の碑文には、戊辰戦争時には敵であった黒田長官への感謝を伝える一文、「故黒田長官ハ我カ部落ニ志業永伝ノ四文字ヲ寄セル」が見えます。「我カ部落」とは、会津藩からの団体が入植した黒川町の登街道沿いからニッカウヰスキーの敷地の南側を経て、田川橋を越えて山田町に入り、あゆ場へ向かう道沿いの一帯を指しています。志業永伝の四文字は美園町の墓地にある「会津藩士之墓」あった銅板に刻まれていましたが、「その銅板は昭和二十四、五年朝鮮動乱の頃、何者かに盗まれ今は碑文のない空の墓石があるだけ」との証言がのこっています。 

このお墓は、明治時代、会津藩士団の死没者慰霊の目的で建立されました。銅板にあった「志業永伝」の四文字の下の碑文は、「明治のはじめ…」ではじまり、戊辰戦争後のこと、会津から小樽に到着した藩士団は数百戸に達したこと、入植した土地につけた黒川と山田の村名の成り立ち、会津から余市に入植してからの先人の労苦を書き記しています。銅板作製の発案者は鈴木兼友さん、賛同者には在竹隆保さんと古沢友雄さんのお名前が見えます。在竹隆保さんは余市稲荷神社(後の余市神社)の祢宜(神職、宮司を補佐する職)を務めました。 

「在竹四郎太隆保-覚え書⑴-」には、「(会津藩士団の)入植者の中には当然に死没者が出たので、当時沢町方面にあったその宗派の寺院に馳せて葬儀を頼んだが、寺を維持していた網元の意見は、朝敵・降伏人の葬儀など拒絶せよというにあったのでハタと当惑した。この時在竹は、昔会津時代に神葬祭の家に手伝ってその要領を知る(知っている)旨申したので、之によって行うことにより、それ以来会津士族は皆神徒になるに至ったし、当然、在竹四郎太は神葬祭を司る様になったと云うのである。」とあります。 

藩士団の「四番組村長」のひとりであった在竹さんは入植時には余市郡黒川村99番地(当時)に居を定め、祢宜となった以降、神社近くの富沢町に転居、その後再び山田町に戻られたようです。当時の在竹夫妻を知る方によれば、「(在竹さんの富沢町の居宅は)尻場山の沢から流れ来る小川の石垣に囲まれた一区画で裏庭があった。幼年の私は姉達が学校に出かけた後は退屈して近隣を遊びまわり、向かいの在竹の家にも行った。老夫婦は可愛がって呉れたが由幾さん(娘さん)は静かな口数の少ない方であった。ある日めずらしく老夫婦は激論の末裏庭に出て木刀と薙刀で試合をした。目を丸くしている前で試合は夫人の方が勝って決着がついた様であった。」 

朝敵・降伏人と呼ばれた会津藩士の家族に亡くなる人があった場合に、葬儀を執り行うことに反対したのはお寺の檀家だった多くの漁家だったといわれていますが、在竹さんは入植後ほどなくして副戸長も務め、前号で紹介した仮郷学所は、会津藩士団の日進館と沢町方面の子弟が一緒に学んでいました。何か別の理由があったのかもしれません。 

会津藩士団が入植して150年を過ぎました。 

志業永伝の揮毫

写真:志業永伝の揮毫

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