余市町でおこったこんな話「その218 澤町学校」

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六角の塔を中央に据えたモダンな洋風校舎、澤町学校の新校舎は明治12(1879)年5月に落成開校式が行われました。8つの教場(教室)をもつ2階建ての校舎で、総工費は3千5百円(当時)でしたが、全額が寄付で集められました。

洋風建築の校舎が出来上がる前の、余市教育所時代のエピソードがのこっています。

「浜中の学校(教育所)には数名の教師がいて、一教室に全校百名近い生徒が勉強していた。(中略)通知箋はなかったが、名札かけがあり、それが成績順になっていて、出席簿の役割(表は黒書きで出席・裏は朱書きで欠席)も果たしていた。皆一斉にやる小試験と、個々面接による大試験があり、校長が成績を決め、名札の並ぶ順を決めたので、“まけないぞ”という気風をもった。 読本は教師が三度範読し、一人一人読ませた。読めない時は“読めません”と頭を下げればよかった。」

つぎは新築後の澤町学校に通学した古老の回想です。

「澤町学校の六角堂ができた時はとても立派でした。当時はきかん坊が多く、最も悪い場合(の罰)は、六角堂の暗室に入り、次は茶碗に水を入れて持つ。次は直立というような順でした。私も茶碗に水を入れて立たされたが、腹が立ってその水を飲んだら一時間延長されました。(児童の)年齢もまちまちで、教師もやりにくかったでしょう。始業の合図には、鐘がなりました。通学は本人の自由でしたので、出欠も悠長で、理由は翌日聞かれ、不明瞭な場合は親が呼ばれた。校内は教師が校外は親が責任をもつというように、責任の分担がはっきりしていた。」

時代は下って、昭和9(1934)年6月には同校創立60周年記念式典が行われ、祝賀会や提灯行列、旗行列、運動会などの多彩な記念行事が挙行されました。沢町小学校の百周年記念誌『創立百年』を読むと、提灯行列の参加者たちはさまざまな趣向を凝らしていたようです。

「午後7時、(沢町小)校庭に集合という予定なのに6時頃からひしひしと持ち込まれる意匠を凝らせる大行燈(あんどん)、町内菓子商組合員の高さ1丈 (約3m)に余る紅白の鏡餅、それを取り巻く10余名のチンドン屋、同窓会女子部の万国旗とイルミネーションに飾られた屋形船、石川忠商店の母校の姿を写せる屋台、関薬店(薬局)の母校々章の模型、同窓会男子の屋台、保護者会幹事作製の今昔の学生比べの高 塔式大行燈、竹内金物店作製の1丈に余る大鯛、北の誉、十一州の(日本酒の)瓶に因める祝賀の屋台、福岡同窓会副会長(当時)の騎馬武者姿等、思い思いの色彩の中に、「祝創立六十周年」の文字が躍り出て、 母校敬慕の精神が表徴され、六時半頃にはさしもの校庭も狭いほどであった(原文はカナ文字)。」

屋形船は台車に乗せられたものでしょうか。校章の模型、高塔式大行燈などかたちがよくわからないものがあります。

定刻になり、母校の周年行事を祝う万歳の(声の)波にのって行列が学校を出発すると、小路から提灯を持った人々が合流し、浜中町へ向けて進みます。記念撮影をした後、山碓町(現港町付近)を縫って歩き、先頭を歩く煙火屋はところどころで花火を打ち上げました。余市神社にたどり着いた行列は、富沢町を一直線に練り歩き、町の辻々では皆が万歳の声をあげ、どこからともなく校歌が沸き起こります。行列が学校に戻ってきたのは10時半を過ぎていました。

時はめぐって令和の時代になりました。沢町小学校は明治6年の余市仮郷学所の開設から数えて、来年、 150周年を迎えます。 

リンゴもぎ(大正末期安芸農園「登郷土誌」

図:後志國余市郡澤町学校(『後志国盛業図録』より)

この記事に関するお問い合わせ先

総合政策部 政策推進課 広報統計係
〒046-8546 北海道余市郡余市町朝日町26番地
電話:0135-21-2117(直通)FAX:0135-21-2144

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