余市町でおこったこんな話「その217 登のリンゴ」
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北海道開拓使から全道各地に配られた果樹の苗のうち、後に地域の名産となった余市リンゴは明治12(1879)年に結実したものが始まりといわれています。
実ったリンゴは、札幌などの市場で高値で取引されるようになり、黒川、山田両村(当時)を中心に、同20年代以降、沢町や梅川、登でもリンゴ栽培をはじめる人が増えました。同12年頃には秋田団体が山田村へ、同14年には筑前団体(現在の福岡県北西部)が 下山道村(豊丘町)へ入植しました。
『登郷土誌』によると、登地区では同20年頃から 1haほどにリンゴが植えられており、以降順調に面積 は拡大して、同30~35年頃には相当の作付面積が あったそうです。
当時のリンゴの価格は生産者の手取りで、1箱18 kgの箱詰めで80銭、越冬貯蔵(雪囲い)したものは 1円80銭(当時)でした。
明治末以降、ロシアへの輸出が盛んになり、栽培面積も順調に増えていた頃から病虫害の被害が大きくなり、生産者は危機感を抱きます。
同37年~38年頃にはリンゴの木の幹にコモ(薦)を巻き付け、蛾が卵を生みつけるとそれを取って熱い風呂の湯を掛けたり、火で焼いたりして駆除したというお話も見えます。
同書によると、明治44年、北海道農業試験場技師で農学博士の岡本先生が袋掛けの代用として防除用の札幌合剤を発明され、登地区でも大正元(1912)年から使用されました。
病虫害対策のほか、地域の生産者さん達は栽培方法の研究にも熱心でした。昭和のはじめに北大果樹園に赴任した樋口力蔵技官が剪定(枝を切って形を整える こと)の重要性を強調して、農家の指導に当たられた こともあって、登地区の「剪定熱」が高まりました。 そんな中、青森県津軽から、武内さんという方が果樹 の剪定のために登地区にいらっしゃいました。
この時の剪定は、見学した栽培農家さんにとって大 変に有意義な機会となったそうで、地域の何人かは先 進地津軽に渡り、彼の地の八木橋さん、渡辺さんお二 人から剪定の技術を学んで帰りました。
明治30年代以降の病虫害は北海道や青森など広い 地域の深刻な問題でした。花腐病や実腐病と呼ばれたモニリア病をはじめとして、同44、45年を境に被 害が急激に拡大しました。これに困った青森県では、果樹園芸学を修めた技師を招くことになり、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の星野勇三教授に照会、推薦されたのが島善鄰(よしちか)技師でした。
星野教授と島技師による調査と判定をもとにした栽 培改善運動によって、青森県のリンゴ産地としての地位はゆるぎないものになりました。
こんな話その25で紹介しましたが、星野教授は、リンゴ栽培が将来的に有望なことを確信し、北大余市 果樹園において各品種の比較試験や、環境条件の調査と栽培技術の改善、生産費の研究など幅広い実績は地域に還元されました。
また、島技師(後に教授)は、生産者が口をそろえて「リンゴの神様」と呼んだ方で、病害虫防除や果樹園の施肥、土壌管理などに功績を残します。
樋口技官の指導を長く地域に根付き、昭和20年代以降、登地区では「登甚六会」や「登同志会」という地区の研究会が結成され、剪定や栽培方法についての研究を続け、同志会が青森県弘前市から招いた小野正さんの剪定方法は、「小野流」として地域に浸透したそうです。
その後も、リンゴの品種改良や、新たな保存方法の 模索、病虫害対策などを乗り越えながらの栽培が続けられています。
お詫びと訂正 余市町でおこったこんな話8月号 の本文中、7~8行目の「発声した」を「発生し た」に訂正してお詫びします。
写真:リンゴもぎ(大正末期安芸農園『登郷土誌』)
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