余市町でおこったこんな話「その213 惣大将八郎右衛門」

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水産博物館にアイヌ民族の墓標の複製が展示されています。町内に最後まで使われていた墓標は大正時代にはなくなってしまっていました。考古学者の河野廣道さんが、北海道と樺太(サハリン)のアイヌ民族の墓標の特徴について調査した時に、余市にも訪れ、その成果は昭和6(1931)年に報告されています。墓標は男性用と女性用とがあって、余市の墓標は「一側(片側)に小枝あり、彫刻」があり、女性用は「太き棒状、彫刻あり、頭部針頭形」のものと記録されていて、博物館で紹介しているのは男性用の墓標です。

   河野さんによれば、このかたちの墓標があるのは、樺太では西海岸の眞岡(ホルムスク)、本斗町(ネべリスク)、大泊(コルサコフ)付近に分布していて、同じ墓標があるのは北海道では余市だけでした。

樺太南部から余市まで、習俗や文化の共通点が多く、仲間意識を持った集団が暮らしていたのでしょうか。かつての余市アイヌは交易のため樺太や黒竜江(アムール川)にまで足をのばしたと言われ、「樺太から貰ってきたヨロイが2つもあった。」と伝わっていることは、それを裏づけています。

時代はさかのぼって、江戸時代の寛文9(1669)年のこと、蝦夷地の広い範囲でアイヌ民族と松前藩との戦いが起きました。シャクシャインの戦いと呼ばれたこの戦いは、交易のために自由に松前城下や東北まで行くことが出来なくなり、交易相手が松前藩だけになったアイヌ民族の不満が背景にありました。

各地で戦いは続き、蝦夷地の中で何が起きているのかは、幕府、東北諸藩の重大事でした。松前藩からの報告が入らない状態に業を煮やした幕府は津軽藩に偵察を命じます。牧只右衛門ほか津軽藩の一行が船でオショロ湾に入った時、そこに集まったアイヌ側の船がおよそ100艘、やりや弓を持ったアイヌが600~700人ほど集まったという記録がのこっています。湾を埋めるほどの船が集まったのでしょうか。

オショロに集まった日本海側各地からのアイヌのリーダーは9人、ルイシン(利尻)の大将ムネワカイン、モンヤカインの2人、テシオの大将トミウヘワイン、ソウヤの大将シルヘタイン、カカモレイの2人、ヨイチの惣大将八郎右衛門、大将ケクラケ、同じくウヘレチ、サノカへインでした。

アイヌのリーダー達が訴えるのは、シャクシャイン側から決起に参加せよと言われたが、断っていた。しかし、今のままの状態では餓死するしかないので、和人を殺した。以前のように松前に交易に行けるようにしてほしい。更には津軽とも交易を行いたい。というものでした。

彼ら9人が着ていたものは、「北高麗織色々唐草織付」の衣類で、その見事なことは言葉にならないと津軽藩側は記録しています。見事な衣類とは後に蝦夷錦や山丹服と呼ばれ、松前藩がアイヌ経由で入手した清国の官服のことと思われます。

ヨイチの惣大将、八郎右衛門の名前が和風です。ハチロウエモンと和風な名前に聞こえただけか、漢字で八郎右衛門だったのか、海を越えて活動した八郎右衛門と和人との関係はどのようなものだったのでしょうか。

余市アイムの男性の墓標(複製)

写真:余市アイヌの男性の墓標(複製)

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