余市町でおこったこんな話「その206 その名はシリパ」
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昭和30年代から昭和40年代にかけて、北海道大学等の研究者が沢町や港町の遺跡の学術調査に訪れていました。シリパ山ケルン(遺跡)はかつてのシリパ山国設スキー場の斜面へ向かう途中にあって、昭和30年と翌31年に北大の名取武光先生を中心とした調査団によって調査が行われました。ケルンとは石を人工的に積み上げたもので、小さなもので高さ0.7m、直径5mほどの円錐状の石積みが10基ほど、高さ0.4mで3~4mほどの楕円形の石積みや帯状の凹地が、90m四方に広がっていました。土器や石器など人の遺した道具などは見つからず、遺跡の性格がどんなものかは今後の調査に期待されました。
シリパ山ケルンの調査が行われていた昭和31年5月、役場職員によって発見された大崎山遺跡は紅志高校の豊丘寄り、ヌッチ川を見下ろす山の中腹にありました。山の中腹、標高約140mの高さにおよそ1kmの範囲に石積みがあって、高さ1~3m、幅1.5m、長さ100mのものが数か所にありました。遺跡と確認されたのは同37年まで待たなければなりませんでしたが、北海道史の第一人者だった高倉新一郎さんや北海道大学の研究者などが中心になって昭和40年に発掘調査が行われました。調査には余市高校の久保先生や豊丘地区の青年団、余市高校の生徒も参加したおおがかりなものになりました。
同じ時期に近距離で見つかった2ヶ所の石積みの遺跡は、近隣の地山の石だったので、畑地から出てきた邪魔な石を積み上げたものと揶揄されたこともありましたが、シリパ山ケルンとあわせて、その構造から大規模なお墓か、信仰に関係する遺跡ではないかとの意見が専門家からだされました。詳細な調査が行われておらず正確なところはわかっていませんが、「阿倍比羅夫」の蝦夷制圧のお話もかつて話題にのぼったことがあったので、慎重にすすめられたことと思われます。
シリパは「山の頭」を意味するアイヌ語地名です。江戸時代の林家文書では「シリハ」と書かれることがあります。釧路町にも厚岸湾に面した尻羽(しれぱ)岬があります。
シリパ岬のように海に突き出た岬は海岸線を行くとみかけますが、江戸時代の紀行家、松浦武四郎がのこした「東西蝦夷地山川取調図」には、いくつかのシリパがありました。余市町以外のシリハが小樽市高島、積丹町積丹岬、岩内町と蘭越町の境界の雷電岬の3か所、シレハエが寿都町、シレハが大成町(旧)と熊石町(旧)の境界の長磯岬、小樽市忍路、釧路町の3か所と合計8か所です。かつてのシリパ地名は日本海側に多かったということでしょうか(「「古代」史料に見えるシリパはどこか」『余市水産博物館研究報告』第1号)。
「シリパ」が文献に見えるのは延暦14(795)年のことです。その頃大陸にあった渤海国からの国使が「夷地志理波村」に漂着して、「劫略」(脅して奪われる)されたという記録が残っています。日本海の向こうの国からの船が漂着するのは、日本海側のどこかと考えるのが自然のように思います。アイヌ語の地名が時代と共に変化することに注意しつつ、その頃の日本海側の遺跡、時代的には擦文時代の遺跡がある地域について、前掲書では余市町、寿都町、小樽市蘭島を挙げています。大川遺跡は縄文時代から連綿と続いた遺跡ですが、漂流した渤海の船が目指したのはシリパ岬だった可能性もありそうです。
図:日本海側のシリパの分布
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