余市町でおこったこんな話「その203 左川ちか」

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「…少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢(そうそう)や森林地帯が車内に入つて来る。両側の硝子に燃えうつる明緑の焰で私たちの眼球と手が真青に染まる。乗客の顔が一せいに崩れる。濃い部分と薄い部分に分れて、べつとりと窓辺に残された。草で出来てゐる壁に凭(もた)りかかつて私たちは教科書をひざの上で開いたまま何もしなかつた。私は窓から唾をした。…」
「暗い夏」『左川ちか詩集』昭和8年

左川ちかは昭和初期の詩人。「現代詩の起点となる詩人」とも称されています。本名は川崎愛といい、明治44(1911)年2月に黒川村大字黒川村字登番外地に生まれます。6歳で中川郡本別村(帯広市の東、現在の本別町)へ転居、彼の地の小学校へ入学します。12歳で余市に戻った転校先は大川尋常小学校でした。卒業後は庁立小樽高等女学校(現小樽桜陽高校)に入学し、この頃、小樽高商(現、小樽商大)に在学中だった伊藤整に出会います。教員免許取得のために進学した小樽高女補習科師範部を17歳で卒業し、上京。先に上京していた伊藤整や兄の川崎昇を通じて詩人や作家との交流を深めました。18歳になった昭和4年には伊藤整や川崎昇らが創刊した『文芸レビュー』上に、左川千賀の名前で英語文学の翻訳を発表するようになりました。後に詩人左川ちかが誕生したのは、お兄さんの昇の親友、伊藤整が左川ちかの才能にほどなくして気づき、的確に世に紹介したことがありました。
19歳で最初の詩「昆虫」を発表後、訳詩や詩の発表を続けますが、病に倒れ、昭和11年1月に24歳で亡くなります。母と兄に「みんな、仲良くしてね」と言い遺したと伝わっています。この年の11月に『左川ちか詩集』が刊行され、収録された詩は75篇を数えました。詩人として6年間の活動は、昭和初期の文学運動(モダニズム文学)に大きな影響を与えたと言われました。
作品には10代を過ごした余市の自然や果樹園の印象が刻まれているものがいくつかあります。冒頭の「暗い夏」には、「少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢や森林地帯が車内に入つて来る」とありますが、これは函館本線の余市小樽間、塩谷あたりからの車窓のイメージなのでしょうか。
「葡萄の汚点」という作品では、「空気を染める葡萄の汁」、「金色のりんごが充ちる林檎園」、「庭の隅の向日葵」といった言葉が並んでいます。
幼少期のころから病弱で、若くして亡くなったちかは、生涯を通じてお兄さんの昇さんを慕っていました。昇さんは親友の伊藤整とともに北海道や東京で文学の活動を共にし、同人誌を発行するなどしていたので、その姿勢がちかに影響を与えたかもしれません。

火を積める予習のつかれすべなしや
炬燵にうつ伏し妹は寝る

病弱ではあったものの、学業優秀だったちかが、小樽高女を目指して受験勉強していたころ、昇が詠んだ歌です。予習をしながら寝てしまった妹への愛情の眼差しを感じます。
ちかの詩作は戦後、平成、令和と時間を経ても輝きを失わず、今だからこそ読まれる詩篇として集成本や英訳本の刊行が続いています。

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写真:左川ちか(市立小樽文学館所蔵)

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