余市町でおこったこんな話「その202 違星北斗と島田先生」

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以前紹介した余市生まれのアイヌの歌人、違星北斗は口語短歌をよくし、バチェラー八重子、森竹竹市と並んでアイヌ三大歌人とよばれることがあります。
北斗のお母さんは日本語が堪能で、学問の重要性を知る人でした。北斗が入学した町内の小学校はアイヌの児童が3、4人と少なく、和人の級友らに「非常に侮辱され、時偶(ときたま)なぐられ」、「迫害に堪へ兼ねて、幾度か学校を止めようと」思った苦しい日々でしたが、お母さんに励まされ、大正3(1914)年に無事卒業することができました。
その後、道内各地を転々とし、15歳の頃には夕張で木材人夫、年を重ねて石狩のニシン漁場、鉱山などで働きます。大正11年には徴兵検査に合格、翌12年7月に入隊しますが病気のためか1か月ほどで除隊します。
20歳を過ぎた頃、登小学校の島田校長先生からかけられた一言が、その後の北斗の人生に大きな影響を与えたようです。先生は北斗に、アイヌという呼称と「土人」という呼称を使い分けなければならない場合に、「(どちらが)君達にやさしくひゞくか」と問われました。北斗は、「和人は皆同情もない者ばかりだと考へてゐたのをこんなに遠慮して下さる人」がいることに驚きました。
島田先生は登小学校がまだ、分教場(黒川小学校の分校)だった頃、明治37年から同42年まで訓導(教諭)、同年から登尋常小学校(当時)の初代校長となった方でした(初代、第4代)。
登小の「校下一般ノ風紀、産業等状況」(『登郷土誌』)が示された第三代の三本木校長の時代は、町内的に疲弊した地域が多く、集落ごとの対立もあって、教育の力が地域に必要とされていた時代でした。小学校は児童への教育を行うだけでなく、地域の青年男女への指導、住民の啓発など大きな役割を持っていました。
この「状況」が示された時期は、「余市旧土人増資組合」の解散など地区に様々な問題が持ち上がったころで、その少し前に島田校長と北斗は出会っていたようです。
その後、北斗は小学校の恩師の奈良直弥先生などの影響で俳句を作るようになり、町内の俳句グループに参加します。彼は上京後、アイヌ語研究の創始者であった金田一京助ら著名人と出会い、アイヌ民族の過去と現在、そして未来について語り合い、知見を深めます。そしてアイヌ民族の地位の復興という決意をもって、北海道へ帰りました。
早逝した北斗でしたが、まるで死期を予感したかのように、亡くなる前に多くの短歌を詠んでいます。北斗は自分の短歌について、次のように述べます。
「…歌に現われた所は全くアイヌの宣伝と弁明とに他ならない。それには幾多の情実もあるが、結局現代社会の欠陥が然らしめるのだ。そして住み心地よい北海道、争闘のない世界たらしめたい念願が迸(ほとばし)り出るからである。殊更(ことさら)に作る心算で個性を無視した虚偽なものは歌いたくないのだ。」『違星北斗遺稿集』
彼はやさしさ溢れる歌と、猛々しい歌を詠みます。

アイヌとして生きて死にたい願もて
アイヌ絵を描く淋しい心


雨降りて静かな沢を炭竈(すみがま)の
白い烟(けむり)が立ちのぼる見ゆ

今年は北斗の生誕120年です。

202

図:北斗の自筆

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