余市町でおこったこんな話「その198 大日本果汁のウイスキー」
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2月です。90年近く前の2月のこと、ニッカウヰスキーの前身、大日本果汁株式会社の主力製品「ニッカ林檎汁」の初出荷をめざして壜詰作業が行われていました。
大日本果汁株式会社は、竹鶴さんが寿屋時代から抱いていた、北海道でウイスキーを作りたいという夢を実現させるべく創立した会社でした。氏は昭和8(1933)年に北海道を訪れて江別と余市を候補地にし、翌9年には笠島余市町長(当時)と地元実業家の但馬八十次さんの案内で、工場建設の地を余市町に決定しました。
果汁販売はウイスキーが出来上がるまでの会社存続の方法だと竹鶴さんが考えたとされていますが、物心両面で協力した、同社相談役の加賀正太郎さんは次の言葉を残されています。
「混濁した大量の苹果汁(リンゴジュース)の所置はどうしたものか、之れを放棄するのは如何にも勿体ないので、結局竹鶴案に依って之れを原料として蒸溜器にかけて、ブランデーを造る事に成った。(中略)しかし、ブランデーの原料苹果(リンゴ)は秋のもので、これの仕込、蒸溜を終れば、他の季節には蒸溜器を遊ばせておかねばならない。そんな勿体ない事は出来ぬので、大麦によってウヰスキーの製造も始めたのであるが、それが今日のニッカ・ウヰスキーの濫觴(らんしょう)である。」(『ニッカウヰスキー80年史』)
つまり、不良品となった同社製品のリンゴジュースを原料にしたブランデー製造をするために蒸溜器を導入し、蒸溜器が稼働しない時期に大麦を使ってウイスキーをつくろうとしたのがニッカウヰスキーのはじまりだということのようです。また加賀さんは、寿屋を退社してすぐの竹鶴さんが、ウイスキー工場を造って同社と競り合う意思は全くないということもご本人から聞かれていました。
大日本果汁株式会社は、工場2棟、貯蔵庫2棟、事務所1棟、研究室1棟、専務社宅1棟、給水場1棟、便所1棟の施設で操業が始まり、果汁製造会社としてスタートできる最小限の施設だったものと思われます。そして同社創立の2年後、昭和11年2月、大阪の喜田専之輔さんに製作を依頼したブランデー蒸溜用のポットスチルが設置され、ブランデーとウイスキーの製造が開始されました。工場施設は徐々に整い、現在の正門から見える大きな三角屋根の乾燥塔や蒸溜棟もほどなくして完成しました。
果汁製造を目的としてスタートし、昭和15年には遂に念願のウイスキーが完成したわけですが、夢を実現するまでには様々な困難があったものと思われます。
ニッカの正門や製品のラベルマークに、スコットランドの王室の紋章によく似たデザインがありますが、これは戦国武将の山中鹿之助の兜を中心に、神社の狛犬を両端に配置したものです。「我に七難八苦を与えよ」と三日月に祈ったとされ、忠誠心のあつい武将といわれた山中鹿之助ゆかりのデザインを竹鶴さんが選んだ理由は、つぎの氏の言葉に見えるような気がします。
「一芸一能の人にさへ成つて置けば、我れは、一個の有用なる人として、何処にか己れの立場を見出し得ぬといふ事はない。更に進んで、『この人は、無ければならぬ人だ』と、世をして、己れの必要を痛切に感じさせる人物に成り得た時は、少なくも、我れは、
是れ一個の人才として、世の大道を闊歩(かっぽ)し、大切な男児の頭を、無暗(むやみ)に人の前に低げずに済む時である。」
写真:ニッカウヰスキーのラベル・マーク
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