余市町でおこったこんな話「その195斗南藩」

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会津藩団体の余市入植の歴史を記した「炉辺夜話」(こんな話 その129「農業移民とリンゴ栽培」)の項「罪の二百戸」の一文に「明治三年ニ入リ城主松平候ハ斗南藩三本木ノ地ヘ(今青森県下北郡上北部此ノ地ニ今尚旧藩士ノ農民多シ)禄高三万石ニ藩地国替ニ成リ兵部省ヨリ斗南藩ニ引渡サレヌ随ツテ小樽謹慎者モ引継カレ…」とあります。
斗南藩は、再興が許された会津藩が、明治2(1869)年、松平容保(かたもり)の嫡男、容大(かたはる)に家名を存続させて成立しました。会津藩のあった福島県から遠く離れた青森県の東部、現在の十和田市付近と下北半島の大半の土地(飛び地)での再興でした。
明治3年4月、旧会津藩士たちとその家族は海路と陸路に分かれ移住を始めます。東京で謹慎を解かれた者たち300人が第一陣として品川を出港。以後、陸と海から次々と会津の人たちが新天地へ向かいました。蒸気船は新潟からの便もあり、大平(現在のむつ市)、野辺地、八戸へ向かいました。会津から斗南まで陸路を進んだ人たちは、晩秋に出発し、仙台や盛岡経由で2、3週間歩き通しでした。すりきれる草鞋を日に3、4度も履き替え、みぞれ雨に濡れても着替える服はなく、飢えをしのぎながらの旅でした。この年の10月までに約2千8百戸、延べ1万7千人余が斗南の地へ移りました。斗南藩は後志国の瀬棚、太櫓、歌棄の3郡と胆振国の山越郡の支配も命じられたので、そちらへ移住した者もありました。
斗南へ移住した会津藩士らは、農業を生活の基盤とすることを目指しましたが、米作はもちろんその他の作物も期待できないことを彼らは早くから察知していました。斗南藩関係者のうち指導的立場にあった広沢安任(やすとう)さんが設立した開牧社のように農牧業で実績をのこしたのは稀な例で、とりわけ下北半島で暮らした人たちは苦しい生活を強いられました。斗南に残った会津関係者の多くは、役人や町村長、小学校の教員に身を転じました。教育者となって斗南藩以外にも津軽方面で活躍する人が多くいたり、当時名門といわれた青森小学校(後の青森市立長島小学校)の教員の半分近くが斗南藩出身者だったこともあったそうです。また武芸に秀でた者は剣術を見せる巡業に加わったり、牛鍋店を開業する者、魚菜の行商をなりわいとした人など特殊な例もありましたが、斗南を去る人が相次ぎました。明治4年の廃藩置県の時点で、会津からの移住人員のうちおよそ3000人は出稼ぎなどで離散してしまっていました。
斗南藩から余市町へ移住した人もいました。余市町指定文化財の御受書には、宗川熊四郎茂友以下、227名の名があり、後半の33名が斗南から移ってきた人と言われていました。しかし、余市郷土研究会の前田克己先生(故人)の調査の結果、斗南経由で余市にいたった会津人は、御受書中の古沢幸三郎はじめ17名であることがわかりました。
故郷を遠く離れ、余市にたどり着いた幾名かは余市の地に眠られています。
 

写真:御受書中の斗南藩士

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