余市町でおこったこんな話「その194ひろがるリンゴ栽培」

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明治12(1879)年に町内ではじめて実ったリンゴはその後着々と栽培面積を広げました。雑穀や野菜よりも高い値段で取引されたからで、明治20年代には、リンゴの木1本から20~30円(当時)の収穫があるとされました。また同25年、南鷹次郎(第二代北海道大学総長)は講演で「目下の処農作物の中で、林檎程北海道で収益の多いものは他にありません。」と述べています。

明治20年代の北海道各地の栽培面積を比べると、札幌区と札幌郡をあわせて北海道の4割を占めていて、ついで有珠郡が2割、余市は1割にも満たない程度でしたが、明治時代末になると余市地方の栽培面積が急速に増えます。これは余市駅の開業やロシア航路開設によってリンゴの販路が拡大したことが背景にあるようです。当時年2600トンほどの余市リンゴの生産高は、北海道全体の3割を超えるといわれるまでになりました。栽培地は町内ではじめてリンゴ栽培が始まった山田村に集中し、秋田県団体の入植がこの傾向を加速させました。山田村は平たんで、地力が強く、秋田団体の髙山氏は栽培技術に秀でていて、また明治40年に北大果樹園ができるなど環境が整っていました。

北大余市果樹園で研究された初代の園芸学講座担当の星野勇三先生(こんな話その119)が10代の頃、余市へ訪れた時の回想がのこっています。

「私は明治二十六年五月都道した。…中略…札幌より小樽までは鉄道で、あとは鉄道がなく、馬の背中にのってきた。(滞在した)西堀宅では、漁場のほかに別にリンゴ園をもっていた。…中略…余市で一番古いリンゴの樹は、たしか百瀬さん宅に今の住宅のあたりにあったときいている。私がきた時は明治8年に(植えられた)緋ノ衣はなく、那須園にいまある明治12年ころの祝だろう」

栽培面積と販路が拡大した明治30年代は、同時に病気や害虫との戦いが本格的にはじまった時期でしたが、各地でさかんにはじまった果実品評会ではリンゴも多数出品されました。品評会でのリンゴの審査内容は面積の広さ(2町歩(約2ha)以上なら満点)、品種も早生から晩生種まで割合よく栽培する者は高得点、他に植え付け樹木の配置、剪定のしかた、病虫害の有無、貯蔵庫など設備の優劣などの合計で順位が決めました。これはリンゴをはじめとした果実栽培を北海道の産業として確立させるための取り組みだったものと思われます。

明治34年、沢町小学校では5日間の日程で小樽郡外六郡水陸産共進会が行われました。教室を出品種類ごとに分けて開催され、陳列されたのは果実(311点)、ふつう農産物(大豆など2,338点)、水産品(354点)、酒類(35点)で、多くの人々が集まって盛況でした。

品評会の類の全国大会では、内国勧業博覧会があります。明治時代に5回開催された博覧会で、国内の産業を発展させて新たな輸出品を作り出す目的で開かれました。第一回は大久保利通の主導ではじまり、日本国中から物産を一堂に集めて、出品者の向上心や競争を促す目的がありました。回を重ねるにつれて経済的効果をもたらすことに注目が集まり、興業や娯楽的な要素に重点がおかれるようになりました。

明治36年の博覧会では、山田村の三宅権八郎さんが三等賞でしたが、二等賞では同じくリンゴを出品した百瀬葉千助さんがいました。また余市町黒川村の明石基太郎さんは小麦を出品して一等賞を獲得したという記録がのこっています。

写真:内国勧業博覧会の賞状 明治36年

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