余市町でおこったこんな話「その186 弁財船、茂入山に登る」
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昭和43年(1968)12月15日の新聞記事に「弁財船、茂入山に登る 余市」の見出しが見えます。記事によると「昭和43年12月13日の午後、船が山に登った。全長約5メートル、高さ、幅約2メートルの新造船」とあります。これは当時の余市町役場企画課が、翌年5月に開館を控えた水産博物館の目玉として、発注した弁財船の模型でした。開館時の水産博物館はテーマの一つが“ニシン漁のすべて”で、千石場所だった余市の様子をわかってもらうため、ニシンにゆかりのある資料すべてを集めることにしたのだそうです。この年の7月、15万円(当時)の経費で、町内沢町4丁目の船大工、酒井久蔵さん(75歳、当時)に製作を依頼し、酒井さんは、茂入山の麓にある弁天社に奉納されていた船絵馬や、ご自分が少年のころに見た本物の弁財船を思い出しながら、ケヤキとスギの木材を使って製作したものです。船は『長生丸』の名前がつけられました。
北前船の名前の方が定着した感がありますが、当時は弁財船と呼ばれ、江戸時代から明治時代まで、蝦夷地(北海道)と本州を往復していました。「北前」の名称には諸説あって、「北国、松前」の略称説、北を前にして進むから説、「北へ廻る」の略称説、北国のお米(きたこめ)の転訛説があります。本州日本海側各地での呼び名は「ベンザイ船」や「ドウバラカキ」、「バイ船」など色々な呼ばれ方をしていました。
明治時代になると、ますます弁財船の往来がさかんになります。その頃の余市の様子を伝える物語がのこっています。「北陸からやってくるこの船はその年中の食糧、衣類、雑貨とともに文化ニュースを持って来る、そして莫大な現金を町におとしてくれる宝船であった。この船が来ると浜には、たいまつ、かがり火を焚き、船からはそれに応えてホラ貝を鳴らすものもあった。荷揚げは昼夜の別なく、街は一度に活気づき、大人も子どもも都の話を聞こうと、にぎわうのである。弁財船のさかりは明治10年代が一番で、年によっては40隻を越えた。…中略…合計はおおよそ5百人ぐらいの乗組員がこの町に上陸する。花街は言うまでもなく、各商店も賑わってくる。子ども相手の駄菓子屋の店先にも内地の金平糖とか源平豆、泡おこしなどが並ぶ。」(『余市小史』)
冒頭の記事の続きです。12月13日の午前11時、「土ぞり」に乗せられた弁財船は、大型トラックに引かれ沢町を出発、浜中町を経て茂入山頂への約2キロを登ってゆきました。記事では「しずしずと進んだ。」と表現されていて、船のまわりにはこの模型が倒れないよう支えながら押してゆくために役場職員10数人がかりだされ、付き添った警官は要所要所で交通整理に当たりました。
「ところで博物館についた弁財船は、残念ながら中へはいれない。館の仕上げ工事が入り口を狭く」してしまったからで、困った関係者は、更に役場職員を増員させて、前から後ろからなんとか入れようと試みましたがだめでした。
結局、部分的に部品をはずして無事に搬入できたのはその日の4時半頃のことだったそうです。
写真:茂入山の水産博物館に展示される弁財船(昭和43年12月15日の新聞記事から)
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