余市町でおこったこんな話「その196製樽」
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9月からウヰスキーの蒸溜作業が続いています。原酒は樽の中で熟成されます。
「余市工場の貯蔵庫では、初年度のウイスキー原酒が四年目の眠りに入っていた。水のように透明であった原酒も、樽で眠るうちに淡い琥珀色を帯び、荒々しい酒の精は丸みを帯びて馥郁(ふくいく)たる香りをたたえはじめた。」(『ヒゲのウヰスキー誕生す』)
竹鶴さんはご自身で書かれた「ウヰスキー製造実習報告書(4)」の中で、ウイスキーを貯蔵する場所は2階や3階でも可能であるが、地面に近い高さで貯蔵したウイスキーがもっとも芳香があること、良質なナラの産地である北海道は材料の入手がしやすいこと、樽の数は1石(10斗、100升)入の樽1千個が1年間に必要と報告しています。またウイスキー製造は、日本なら11月に始めて3月までの5ケ月間が適当であること、夏の醸造は日本酒と同様に、大規模な冷却装置を用意しないと難しいこと、ウイスキー製造が軌道に乗って、その規模が拡大すれば、自社で製樽工場をもつ必要があることを述べられています。これが書かれたのはスコットランドの大正9(1920)年5月のことで、すでに北海道が視野に入っていたことがわかります。
昭和9年(1934)に大日本果汁(株)を創設した竹鶴さんは、持論のとおり自社の製樽工場をつくりました。
「これらの工場と倉庫群を通り抜けたところに、よどんだ小さな川、粗末な木橋を渡ると数むねの木造建て物がある。これがニッカ製樽工場である。そしてここには、洋酒樽づくりの名人、この道ひとすじを歩み続けて五十年の小松崎与四郎さんがいる。」(北海道新聞 昭和40年10月の連載記事)
小松崎さんは、「こんな話 その127」でも紹介した樽製造の第一人者です。最初の製樽工場が作られた時期は不明ですが、取材された記者さんが訪れたのは、まだ埋立がされていない川岸近くの何代目かの製樽工場と樽材乾燥場のようです。
小松崎さんが話された樽づくりの苦労や思い出話はとても興味深いものです。
「ニッカでは最初アップルワインをやっていたが、こいつがウイスキーより始末が悪い。糖分というのは滲み出し方がはなはだしいもんだ。あの手この手とずいぶん材料も研究して、ようやく今日のような樽ができた。はじめに手にしたブドウ酒樽は一石入りで高さ二尺八寸(約85cm)、径が一尺八寸(約55cm)というやつだった。これじゃ小さくて置き場所がたいへんだというので、三石入りを作った。高さ四尺一寸五分というやつで、これを作りはじめたのはわしが元祖だ。竹鶴社長立ち合いでこれがいい、あれがいいといって、社の技師の人が青写真をとって設計したり、たいへんだったな。あれは昭和15年ころ。」
「昔は原木を割るのから削ったり組み立てるまで、全部一人でやったもんだが、いまではいろんな動力機械もはいって、能率は倍になっているね。…(中略)…原木割りに八人、むしガマ係三人、組み立て八人と、若い工員も使っている。(ライバル会社は)ずいぶん機械化して、板もひいたものを使っているらしいが、こっちは自然のままに割って作るんだからね。」
写真:樽づくりの様子(北海道新聞 昭和40年10月12日)
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