余市町でおこったこんな話「その191 河野常吉さんが見た余市町の遺跡」
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今年も町内の登町10遺跡の発掘調査が行われています。倶知安方面へ向かう高規格道路の工事にともなった発掘調査です。
「余市町の先史時代遺跡 大正十四年十月記」として、河野常吉さんによって遺された記録には、以前このコーナーで紹介した天内山(こんな話その30)とともに町内の遺跡のことが書かれていて、登町10遺跡周辺の踏査にもふれています。
「…登川を渡り更に南西に丘陵の麓に沿ひ凡そ一里(約4キロ)も行けば、モンガクと云ふ丘陵があって、其処の細流の岸に石器、土器がある。モンガクより一丘陵を越ると、其処に小谿があって、其水源は泉を成して居る。其南の斜面から、石鏃、石斧、石庖丁、石冠等を出したと云ふ。」
登川左岸の八幡山やモンガク地区、仁木町モンガクへ連なる丘陵は、「細流」や「小谿」があって大昔から人間が生活の場とするのに適した場所だったようです。
河野常吉さんは、幕末に長野県松本市に河野家の次男として生まれ、長野県師範学校松本支校を卒業後、上京して慶應義塾(現・慶應義塾大学)で学んだ後、鉱山の分析主任や長野県庁、気象台勤務などを経て 明治27(1894)年に渡道、北海道庁嘱託となります。
前出の天内山は、河野常吉さんにより明治34年に見取図が書かれ、大正7(1918)年に「余市の城址」として『北海道史』附図に報告されました。河野さんは、この「城址」をアイヌ民族が使用していたチャシ(アイヌ語で砦、柵、柵囲いといった意味)と考えました。北海道内各地のチャシを調査した後の明治39年に「チャシ即ち蝦夷の砦」を『札幌博物学会々報』第一号に発表し、この分野の研究の基礎をつくりました。
天内山を踏査した同じ年の報告で、河野さんは「余市川畔竪穴」のことも記しています。竪穴とは遺跡から発見される地面に穴をくり抜いた住居のことで、「(天内山)「チャシ」の南方数町(1町は約110m)山田村余市川の岸の平地に、昔時、数多の竪穴あり。今日は皆開墾せられて、苹果園其他畑となりて埋没し、僅に数個の痕跡を認め得るに過ぎず。開拓者の談によれば、竪穴の形は方形または円形にして、其径三間より六間に至り、最も大なるものは約十間もありしと云ふ。深さは二三尺より五尺に至ると云ふ。」とあります。
「余市川の岸の平地」が、どの辺りを指しているのかは不明ですが、苹果園(リンゴ園)や畑とするために開墾してその多くが失われてしまったとあるので、山田町のあたり、余市川のかつての川筋には大きな遺跡があったようです(1間は約1.8m)。
河野さんが積極的に道内をめぐった、明治末から大正時代は広い地域で開墾が進んで遺跡が壊されていった時代でもありました。その保存を強く主張した河野さんが上申した明治44年の「チャシコツ保存に関する建議」が議決されたことは、北海道の文化財保存にとって記念すべきできごとでした。
100年ちかく前に、町内の遺跡を丹念に踏査された河野さんの業績は後世に受け継がれました。大谷地貝塚が国指定史跡となり、西崎山環状列石(河野報告では「畚部の環状石籬」)が守られて今も人々が集まっています。
図:余市町天内山チャシ・大谷地貝塚の位置(「河野常吉ノート 考古編1」P190)
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