余市町でおこったこんな話「その184 黒川農場と粟屋貞一」
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余市川流域の農地の開墾は明治10年代以降本格的にはじまりました。このコーナーで何度か紹介した粟屋貞一さんは、黒川毛利農場(以下、黒川農場)の開墾責任者でしたが、氏は弘化元(1844)年、山口県萩市に生まれ、毛利藩台所頭役となり、明治7(1874)年、内務省で奉職後、毛利藩の北海道移民開拓委員長となって大江村(現仁木町)は同14年9月に事業に着手、黒川農場などで責任者として活躍、同45年に郷里に帰るまで北海道開拓に尽力しました。
農場は広大で、南は仁木町一番地(バス停「仁木北町」付近)から北は旧登川(北星余市高校南側)まで、東は登川の左岸(モンガク地区付近)から西は国道5号線付近までの広さをもっていました(「こんな話」その56)。
開墾事業がはじまった黒川農場の小作制度は、土地を貸与するだけで、食糧費や家屋の貸与はされませんでした。これは粟屋さんが大江村での経験から立てた方針で、自立自営の精神を培ってほしいとの願いからでした。
黒川農場に入った小作人はまず、アミ笠小屋(オガミ小屋)を建てました。これは拝んだ手のように丸太を2本、2組立てて、それらに丸太を横に渡して、笹などで屋根を葺いた家でした。食料や必要な生活用品を買うお金はないので、小作人はそれらを前借りするために、大川町や黒川町の市街地に向かいます。
「小作人は入地すると町の荒物屋(日用雑貨などを商う)に話して、米味噌其他必要品を貸してもらう交渉をする。秋の収穫で支払するのである。こういう資本家の荒物屋が大川町にはマタキや加納等があり、黒川町にもあった」(『郷土研究NO.8 粟屋貞一』)。
粟屋さんは畑作と牧畜の混合農業の確立を目指し、畑と水田、リンゴなどの果樹園を設けました。畑作では豆類が主で、麦や蔬菜もあり、藍も明治30年代にはさかんに栽培されていました。収穫された藍は加工されて、農場事務所と仁木町にあった三井物産倉庫の2か所に集約され、浜中町から船積みされて出荷されるもの、三井物産の裏手の余市川まで船がやってきて、小樽港へ向かうルートがありました。この船は阿部勘五郎さんが3艘所有していた川崎船という種類の船でした。
明治25年頃、安崎主馬蔵さんが1反7畝(約1,700平方メートル)の水田を開きました。種は岩内郡前田村(岩内町)から取り寄せた「鹿より」という品種で、米自体が赤味がった色でしたがおいしいものだったそうです。余市町初の水田があった地は今でも「水田の沢」の地名がのこっています。水田の沢の米作が評判になって空知管内に入植していた新潟や富山からの団体が移住してきて、米どころ出身者の団体による水田経営は順調に進みました。
リンゴは「ホーズキ林檎」、14号、48号、49号が植えられていて、黒川や山田とほぼ同じ明治8年頃には栽培が始まっていました。
農場の開墾責任者として忙しい日々を送っていた粟屋さんの晩年の思い出がのこっています。「粟屋さんをはじめて見たのは明治32、33年頃で、所は赤井川郵便局の附近であった。…中略…純白の髯があごの下に垂れて、赤ら顔と相まって活動的な異彩をはなっていた。背たけは高いように見えた。…中略…(隣室で)しきりに話し込んでいる粟屋さんの「アテーシが」「アテーシが」という声がきこえた。「アテーシが」とは「私が」という長州萩方言でなんとなく親しみを感じさせていた」(前掲同書)。
粟屋さんは開墾責任者の職を辞し、山口県へ帰郷、その後、朝鮮半島で「鰻漁場」を経営します。文字通り大陸を股にかけた人生を送り、70歳で現地で亡くなりました。
図:現在の黒川八幡神社近くにあった農場事務所の見取図(『郷土研究NO.8 粟屋貞一』)
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