余市町でおこったこんな話「その183 竹鶴さんとスポーツ(その2)」
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竹鶴政孝さんは余市町のスポーツ振興にとても熱心でした。昭和16(1941)年完成した町内沢町の竹鶴シャンツェへの資金提供や同24年末の運動公園敷地の寄付など、スポーツ環境の整備に情熱を注がれています(余市町でおこったこんな話その85)。
余市町の体育連盟は昭和22年に創立されましたが、初代会長は竹鶴さんが就任されました。食べるものにも困っていた戦後の混乱した時代、物資不足のなか、戦中はできなかったスポーツの復活は陸上競技からでしたが、続いて伝統あるスキーやジャンプも組織づくりが始まりました。昭和30年代には体育連盟に加盟する団体は順調に増え、野球、スキー、剣道、柔道、バレーボール、バスケットボールと6団体を数えました。
竹鶴さんは町内で行われるスポーツの各種大会への協力を惜しまず、竹と鶴がデザインされた優勝カップと副賞を提供した大会「竹鶴杯」が開催されました。 昭和50年代の記録をみると、3月に竹鶴杯全道ジャンプ大会、6月に軟式野球とテニス、11月には柔道、1月には剣道と5つの竹鶴杯を冠した大会が催されています。ジャンプの竹鶴杯は全国から小中学生が集まって今でも行われています。昭和48年6月、スキーと剣道への功績が認められて体育連盟からの第一回スポーツ功労賞が竹鶴さんへ贈られました。
竹鶴さんはご自身も野球やテニス、柔道など様々なスポーツをされていました。ニッカウヰスキーの敷地内にはテニスコートと野球場があって、社内には硬式野球と軟式のチームがあったそうです。
「軟式テニスのテニスボールを使った軟式野球が盛んで、A・Bふたつのチームがありました。…中略…野球道具は竹鶴さんが一式買い揃えてくれたんです。我々のプレイをよく椅子に腰掛けて見ておいででしたが、時にはご自分でバッターボックスに立たれることもありました」(『ウイスキーとダンディズム』)。また同書によると負けたチームが勝ったチームにぱんじゅうをおごっていたそうです。
テニスもお好きでした。工場内のほぼ中央に創立時の事務所がありますが、テニスコートはそこに隣接して作られていて、お昼休みに社員仲間でテニスをしていると、竹鶴会長が窓からその様子を見られているのだそうです。「政孝会長が出てきて、『オレにもやらせろ』と。硬式をやってたらしくて、木製ラケットを使って、前衛専門だけどうまかった。ただ負けず嫌いで、負けると怒るもんだからみんな敬遠して…中略…会長が入ったらもうやめない。スポーツが好きだったし理解があったね。」(『琥珀色の夢を見る』)
晩年の竹鶴さんはゴルフを始めました。ニッカOBの方からうかがったお話では、リタさんはゴルフがお上手で、スコットランドから持参したクラブを愛用されて、本場仕込みのシングルプレイヤーだったそうです。負けず嫌いの竹鶴さんはリタさんがご存命のうちは負けるのが嫌でゴルフをされなかったといわれる方もいらっしゃいます。前掲書によれば、リタさんが亡くなられて元気がなかった竹鶴さんへ周りの人たちがゴルフを勧められたのだそうです。67歳から始めたゴルフでしたが、だんだんと上達した竹鶴さんのエピソードがあります。ある会でのこと、2ホールをパーであがった3ホール目、「難しい下りのパットが残った。緊張気味に打ったパットがカップインした時は周りの人を驚かすほどの喜びようであった。その後、会に「三連続パー賞」が誕生した」(『久庄次郎四十年の軌跡「冠罐歡」』)
写真:テニス竹鶴杯での記念写真
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