余市町でおこったこんな話「その182 侍小路」
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平成6(1994)年刊の『余市移住旧会津藩士の足跡』(以後、『足跡』)に「侍小路」という言葉が見えます。明治4年に会津藩から入植してきた人たちの住宅が並んだ通りのことを指したものですが、いつ頃から言われたものかはわかりません。
同書中には「子供の頃、今のニッカ工場裏地池の辺りに藩士の住宅が並んでいて、そこの通称『侍小路』を歩くと、独特の雰囲気を感じ」、(藩士住宅の)座敷の入口に、三指をついて「おいでなんしょ」と、来客の子供にも挨拶する品の良い婦人がたばかりだったと伝えられている。」とあります。
また、平成8年刊の『余市物語』には、「町はここ(駅)を起点にして奥地へ発展しはじめた。海岸沿えの街道から途中で駅に向かってT字路に折れた道は、東に五、六百メートル程で二つに分かれる。右へ行くと会津団体の部落へ、左の道は主に四国の人々が拓いた部落や、隣村に通じるのである。・・・小路は二百メートル程で、余市川の右側に突き当たる。家の前は広い林檎園で、夏はかっこうが鳴き、冬はきつつきが幹を叩く。街の人々はここを「さむらい小路」といっていた。」ともあります。
文中下線部分の二つに分かれる道とは、今の駅前郵便局付近にあたるのでしょうか。昭和30年代後半まで、国道5号線は仁木町に向かって進むと、駅前郵便局から斜め右に折れて本間商店から左に曲がって線路を越えて右折しました。
会津藩士団が入植したのは、当時「シュプントー」(シュプンは川魚のウグイ、トーは湖や沼を表すアイヌ語)と呼ばれていた未開地でしたが、開村記念碑がある付近に藩士団幹部の住宅や教学所、共同浴場などが建てられ、ここを拠点として、黒川町の登街道や山田町のあゆ場へ続く方向へ会津団体の開墾地が広がっていきました。文頭の藩士の住宅が並んでいた「侍小路」は、ニッカウヰスキーの裏の池に隣接して走り、ニッカウヰスキーの壁に突き当たる小路と思われます。
会津団体の拠点としたあたりは、まわりの土地よりも小高い場所だったようで、「開村記念碑の建っている黒川九丁目の辺りは、『見晴らしの坂』と呼ばれ、会津の人達のお祭りの場所だった」(『足跡』)、や、「(歌集『かいひろい』を編んだ古沢家のあった場所は)国道5号線沿いの線路側あたりで、「土地が小高い丘をなしていたので、そのあたりを「旧丘(ふるきがおか)」」と名付けた」(こんな話その178)ともあります。名前のつけられたような坂や丘があった、水害の恐れの少ない場所が彼らの拠点に選ばれました。
駅前から田川橋を抜けて山田町方面へ抜ける道は、「侍小路」の入り口を過ぎてニッカ沼を横目に見ながら走ります。田川橋上から川面を見ると、旧田川橋の橋脚の名残も見えます。その旧田川橋がかかる前は「渡し場」があって、人々の往来は舟が使われていました。またニッカ沼が海とつながっていた頃は、ボラがはねる沼だったということです。
図:「侍小路」とニッカ沼(町内個人蔵)
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