余市町でおこったこんな話「その178 かいひろい」
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余市に移住してきた会津藩士団は、明治になって従来の身分制度が廃止された際、士族籍になるところが、農業移民として余市に入植したためだったのか、平民に格下げになった状態が長く続いていました。関係者による士族籍復帰の運動を長く続けた努力が実って、明治26(1893)年9月8日に士族籍復帰が認められました。関係者は喜びの祝宴を開き、その席上で次の短歌が詠まれました。
「人しれすはこにをさめし剣太刀とりいたすけふ嬉しかりける」
士族籍復帰を喜ぶ心情が詠まれたこの歌は、会津藩出身の古沢友雄さんが作歌しました。歌集「嘉斐飛呂比(かいひろい)」におさめられています。古沢さんは明治時代に山田村(山田町)にあった、会津藩出身の子弟が集まって武術を学ぶ講武館で柔術を教え、また剣の達人でもあったと伝わっています。
明治時代の道内の歌壇(歌人たちの社会的範囲)を支えていたのは会津藩、仙台藩、尾張藩からの移民団だったという指摘があります。(『北海道歌壇史』)仙台藩関係では、有珠郡(現在の伊達市)、石狩郡、幌別郡、札幌郡白石などへ、尾張藩もユーラップ原野(現在の八雲町)へ入植しました。これらの地に入植した、もともと素養を備えた人々が明治時代前半の道内歌壇で活躍し、彼らは開拓の苦労などの作品も残しました。
古沢友雄さんは天保3(1832)年5月5日に会津若松に生まれ、長じて古沢藤八の養子となり、上小田垣(現在の会津若松市城東町付近)に居をおきました。戊辰戦争の内、会津戦争で敗れた後も一時、会津若松にとどまっていたとされますが、同3年9月に斗南(青森県)の安藤村に移り、同4年8月に余市の黒川村へ移ったようです。
前述のとおり講武館で後進の指導にあたっていた古沢さんは、同9年6月には余市郡の副戸長となり、同11年2月には戸長の職にありますが(同15年まで)、その後は札幌県勧業課山林係に奉職した後は余市に戻って農業に従事しました。
歌集「嘉斐飛呂比(かいひろい)」は同32年8月に出版されました。活版印刷の和綴じ32頁、古沢さん69歳の年の作ですが、後志地方では最初の出版歌集として価値あるものとされています(『後志歌人伝』)。
巻頭には古沢さんの師であった橘道守(東京在住の歌人、椎本吟社の創設者)の自筆序文が添えられ、200首を超える短歌と長歌1首が残されています。
前掲書には「開拓の鍬をにぎりながらも歌の道を捨てきれなかった一人の移民の足跡を見ることができるのである」とあります。古沢さんは小樽にあった短歌会の小樽興風会に属し、同会が刊行していた歌誌には古沢さん以外にも余市からの出品があり、余市歌壇は古沢さんを中心に盛り上がっていたようです。
古沢家の居所は、余市郡黒川村第十二番地でした。これはおおよそ現在の黒川町9丁目、国道5号線沿いの線路側あたりで、「土地が小高い丘をなしていたので、そのあたりを「旧丘(ふるきがおか)」」と名付けたそうです。
写真:歌集「嘉斐飛呂比(かいひろい)(複製)」余市水産博物館所蔵
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