余市町でおこったこんな話「その175 リタさんと幼稚園」
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「恋人よ、たとえ海が枯れても、たとえ岩が太陽の炎に溶けても、それでも私はあなたを愛します。命の時計が砂を刻むかぎり。」
大正8(1919)年、フランスから帰った竹鶴政孝さんがお土産として贈った香水のお返しに、リタさんが送った詩集の一節です。今から100年前の夫婦のやりとりです。
60歳になったころからリタさんは病気がちになりました。昭和31(1956)年から札幌、小樽、東京と入退院を繰り返します。同32年は秋まで山田町の自宅で過ごし、翌年は鎌倉で静養しました。同34年は3年ぶりに山田町の自宅でクリスマスとお正月を過ごすことができましたが、リタさんの身体は日に日に弱っていきました。翌年のクリスマスも自宅で迎えることは出来たものの、病床でのことでした。
竹鶴威さんによると「ある雪の日でした。うちの庭から讃美歌が聞こえてくるんです。出てみると余市の教会の人たちが歌ってくれていました。『何事でしょう?』と聞くと、『リタさんのお加減が悪いと聞いたのでお見舞いに』というのです。…後略」とあります(『琥珀色の夢を見る』)。
余市教会では、この年のクリスマスイブに町内をローソクを持って讃美歌を歌いながら歩く「キャロリング」を企画、大川町にあった教会から梅川町、沢町などをめぐって山田町の竹鶴邸に信者の人たちが到着しました(『日本キリスト教団 余市教会130年記念誌』)。
「竹鶴さんの家では玄関の前でなく、寝室の近い方の窓の下で歌うことになりました。青年会の人が雪を踏みかためて場所を作り、婦人会の人もそこに行って一生懸命歌いました」(前掲書)
皆の願いもむなしく、リタさんは、昭和36(1961)年1月17日眠るように旅立ちました。65歳でした。昭和10年に余市駅に降り立ってから26年間の北海道での暮らしは、故郷スコットランドに似た自然に触れられた日々でしたが、同時に冬の寒さが厳しくもありました。
「亡くなってから2日間、政孝親父は自分の部屋に閉じ籠もりっきりで出てこない。葬式の準備を進めなければならないのに、一歩も出ようとしないんです。(竹鶴威さん)」(『琥珀色の夢を見る』)
リタさんが亡くなった日の朝、息子の威さんとニッカウヰスキーの工場長が、葬儀のお願いに余市教会を訪れました。着任して日も浅かった吉岡牧師は「クリスチャンであったリタさんの葬儀を通して、地域の方々や葬儀に参列した方々に、キリスト教のことを知ってもらうチャンスを与えていただいただけで十分」と考えて謝礼をお断りしました。何かのかたちで感謝の気持ちをお伝えしたいと考えた竹鶴家では、「吉岡牧師が願っていることを応援しよう」ということになり、新しい教会と幼稚園の建設費用として、リタさんの遺産とあわせて120万円の寄付を教会へ寄せました。
建設工事を請け負ったのは、以前からニッカウヰスキーの建築を一手に引き受けていた小樽市の阿部建設でしたが、竹鶴さんから同社社長へ「この建設で一銭ももうけるなよ。もうけはニッカの方で十分にさせてやるから」と何度も念をおされていたそうです(『日本キリスト教団 余市教会130年記念誌』)。
竹鶴さんとリタさんのお墓はニッカウヰスキーを見下ろす丘にありますが、竹鶴さんはリタ幼稚園の建設場所について生前こんな言葉を遺されました。
「リタ幼稚園も教会も、ニッカと同じ様に何時でも見える所に限りたい。だから山頂から見渡せる所を選んでもらいたい。」(前掲同書)
写真:リタさん『竹鶴リタ物語』より
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