余市町でおこったこんな話「その173 猪俣家の足跡」
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「猪俣安之丞氏の名声を耳にせざるなく、山碓町(現在の港町付近)広壮の建物其一町四方にめぐれる石蔵の大建築を見て…徳川幕府時代郷国越後を辞して余市に漁業を経し…余市開墾株式会社余市銀行等尽々安之丞氏の創意になる…」と余市の実業家として、猪俣安之丞とその息子安造が紹介されています(『小樽區外七郡案内』)。
大実業家となる安之丞は、天保11(1840)年5月に新潟県刈羽郡宮川村(現在の柏崎市)に生まれ、安政2(1855)年、16歳で江差に渡道、慶応2(1866)年春に余市町山碓町に移転、ニシンやサケ漁、海産商、雑貨や綿織物などの販売、廻船問屋を営みました。明治10年代には2隻の八幡丸(甲、乙)と神風丸で廻船業を営むかたわら、明治14(1881)年には山碓の鰊漁場を購入、ついで同16年には濱中町21(当時)、同17年には沖村60(同)の漁場も相次いで手に入れて鰊漁に注力しました。
猪俣キンさんは安之丞と同い年で上ノ国北村出身、幕末には結婚していたようです。二人の生活は最初から順風満帆ではなかったようで、大正時代の小樽新聞に夫婦の苦労話が紹介されています。
「夫婦は暫くここへ落着き薄暗い掘建小屋の中に、ござを2、3枚敷き仮の寝床とし、其の日暮らしをして数年、いつの間にか内地の人々のマチが出来たが、夫婦は力をあわせ、ビタ一文もむだにせず竹筒のなかにぜにを溜め込み、やっと凌ぎをつけられた。」
「明治も10年頃から漁り(漁業か)のひまひま畑を耕す余裕がついてきた。「どうでもはぁ金っ子を溜めずば」と夫婦は膳に向かう都度互いに励まし合いながら、安之丞は海産の仲買いをはじめ、キン子は畑のグズベリを採り、浜で働く男たちに売り歩く(紙上ではキン子という名前で紹介されていました)。」
「沢町の寂れた遊郭裏を流れる梅川の鉄漿(おはぐろ)色の濁っている川に大きな鮭があがっていた。当時は至る所の川へ鮭が上がり、鰊よりむしろ鮭の漁が沢山あった。安之丞は鮭漁の利益あるに眼をつけ僅かの金を融通して鮭の仲買を始め、鮭漁に関連する商品の塩の取扱も功を奏し、とんとん拍子に景気づく。」(大正2年当時の猪俣キン子の取材記事「カクサン猪俣の偉大なる足跡を辿る(2)」川端有氏)
実業家として頭角をあらわした猪俣家は、銀行や信用組合、農場経営、醤油醸造など多岐にわたる事業をてがけ、漁協組合長、金融機関の役員など多くの役職に就任し、名望家としての地位を手に入れました。しかし昭和に入って、余市興業社による余市川埋立事業での宅地開発が不調、余市電鉄も営業開始に到らず、暗雲が立ち込めます。なによりも打撃だったのは鰊漁の不振だったと思われます。昭和5年や同9年は未曽有の大凶漁となり、以降も漁獲は復活せず、猪俣家だけでなく余市町全体が停滞に入った時期でもありました。同13年、猪俣家本宅は北海ホテル(当時)が取得して小樽市へ移築されることとなります。
明治10年代から昭和に入るまでの間、地元漁家の多くが余市町のインフラ整備に貢献しました。その中でも猪俣家は特筆すべき貢献度の高さを誇っています。同時に猪俣家は地元の社寺への寄進にも熱心でした。菩提寺への敷地寄附、「明治二十九年吉日 🈪神風丸船長 下村孫四郎」と刻まれた手水鉢、お寺の本堂の須弥壇、天蓋、ご本尊、神社の灯籠など、余市町内はもとより、キンの出身地である上ノ国町、安之丞の出身地である柏崎などに多くの寄進をしました。猪俣家本宅は移設されて銀鱗荘となりましたが、若干の蔵やこれらの寄進物を町内で見ることができます。
図:カクサン商店 猪俣安之丞(『後志国盛業図録』)
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