余市町でおこったこんな話「その172 八幡山と登地区」
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登街道沿いにある黒川八幡神社(旧登八幡社)は、農道空港のある山の小樽側の八幡山頂上にありました。明治34(1901)年、函館八幡宮からご遷座されて創立されたものです。当時は5月14、15日に春祭りを、9月14、15日に秋祭りを執り行い、大正時代には青年団が中心となって地域の五穀豊穣祈願をし、土俵を境内に作って、午前は子ども相撲、午後は大人相撲が催されました。
八幡山の東側は登町です。ノボリの地名は江戸時代に書かれた林家文書にも見えますが、語源には諸説あるようで、そのうちのひとつは江戸時代の登川の名前である「ポンニクル(小さな林)」です。水源である小登、大登の山の名前に由来するものとされます。昭和のはじめ、登地区は戸数129、人口709名、黒川方面から開拓が順調に進んだ結果、住民が増え、住民の構成は香川県と徳島県からの入植者が多く、「見事な林檎園、水田等開け、黒川村と連絡して農業を専らとするに至った」(『余市町郷土誌』)。
八幡山から現在の場所に八幡神社が移されたのは昭和31(1956)年のことでした。昭和29年9月26日夕方から翌27日にかけて北海道の広い範囲を襲った台風15号によって社殿が大きな被害を受け、斉藤亀一さんがご神体を八幡生活館(当時)に一時的に避難させた後、同31年に現在の場所に社殿が完成されてご神体が安置されました。
この時の台風の威力は凄まじく、最大風速が50メートルを記録して夜には停電となりました。現在の共栄団地付近に1キロメートルほど海岸線と平行して並んでいた防風林もこの台風によってなぎ倒されてしまいました。中には直径が1メートルを超える大木もあったそうです(『郷土誌』)。
八幡山からこの防風林を含めた広い地域は、かつての駒谷農場の敷地でしたが、もともとは明治10年代末にあった毛利農場が小作争議によって中山農場となり、それが分割されて駒谷農場となったものでした(余市町でおこったこんな話その56、57)。『郷土誌』によると、毛利農場時代に八幡山の丘陵は多数の牛馬を放牧していた時期があって、「南部牛や馬がたくさんいたし、鶏も百羽くらいいて牛乳も牛肉も豊富」だったそうです。牧場の周囲はヤチダモの木柵と、その外側の濠がめぐらされていて、平成にはいってからも八幡山の東側の麓にはこの濠の痕跡がのこっていました。
八幡山と農道空港のあいだに水田の沢があります。ここは明治25年に毛利農場の世話人だった安崎さんと篠原さんが、農場内の湿地帯で稲作を試みて1反7畝(約1,685平方メートル)の水田耕作に成功したのがはじまりで、その後、同35年頃から、長沼町に一度入植した後に余市町に移ってきた新潟県や福井県の団体が入植し、ますます水田が広がりました。かつてはフルーツ街道の北側に大きな池があって、渡し船もあったそうです。
水田の沢から西進して余市川に合流する黒川には万才橋が架かっています。この橋の名前の由来には諸説あって、水稲の大豊作に喜んだ駒谷農場の主人がこの橋の上で「バンザイ」と叫んだから、または昭和11年にこの近くで行われた陸軍大演習の終了時に「バンザイ」と唱したから、この橋から仁木方面へ続く道のあまりの酷さを称して“お手上げ”の「万才」だったからというものです。
後志自動車道の余市インターまでが開通します。八幡山を縫ってさらに南へ伸びる道路の足元にもたくさんの物語があります。
写真:八幡神社(「郷土誌」より)
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