余市町でおこったこんな話「その167 余市開墾株式会社の赤井川開墾」
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明治27(1894)年に創設された余市銀行は、銀行としての業務によって得た利益を積立金に計上し、それを「赤井川開墾事業の育成に当てるという異例の創業理念」をもっていました(『カクサン猪俣家小伝』)。創設時の役員は地元漁家の林長左衛門や猪俣安之丞ら7人でしたが、その中に粟屋貞一の名前もありました(「余市町でおこったこんな話」その29)。
粟屋の役員就任は大江村(仁木町大江)と黒川村(余市町黒川町)のふたつの毛利牧場で支配人だったことや、内務省(地方行政などを担当)出身で、明治政府や開拓使にパイプを持っていたことがあったのかもしれません。
赤井川原野は「赤井川沿岸及ヒ其川口附近ナル余市川沿岸」の数百万坪の広大な土地で、大木が生い茂って昼でも暗く、8尺(約2.4メートル)を超える笹竹も密生していました。
そこは広範囲にわたって御料林(皇室所有)でしたが、同27年に開墾のために入植可能となると、入植希望者が殺到しました。
この背景には、同19年の北海道土地払下規則の制定がありました。これは1人10万坪以内の土地を無償で貸し下げて、開墾が成功した者に千坪1円の代価で払い下げるというもので、同30年以降は無償で払い下げられました。
粟屋は赤井川盆地を見下ろす冷水峠側の元服山にのぼり、3日も4日もずっと盆地を眺め下ろし、対面する丸山から測量をはじめたそうです。盆地中央部のほとんどが会社の入植地で、盆地西側からの集団入植は同27年春から3年間にわたりました。
赤井川開墾事業が本格的になった同30年、余市銀行を母体にして余市開墾株式会社が創設されます。営業所は当初、現在の中央水試に近い浜中町におかれ、翌年すぐに赤井川に移りました。
同社の開墾予定地の総面積(同27年、28年の許可地)は814万6,000平方メートルと広大でしたが、2年間の開墾の結果、約17パーセントの土地が開墾されます。同29年の収穫物は小豆など豆類が6種、裸麦など麦類3種でしたが、害虫や早い降雪といった悪天候に多くの作物の収量があがらない中、大福豆、とうもろこし、小麦が好調だったと記録にあります。
入植者らはまず大木を伐採して焼きましたが、イタヤやナラの木は木炭になりました。入植地がすべて耕地になるまでには4、5年かかり、その間は木炭を売ることで現金収入を得ることが出来ました。売値は余市で販売すると1俵(約30キログラム)、20銭ほどでした(『赤井川村史』)。
入植者には永住の意志ある者が少なかったようです。「(入植者は)日中は無数の蚊とブヨに悩まされ、手足はヒビアカギレのため血を吹き、予定の収穫も見られないことから逃亡する者が続出した…(中略)…逃げるといっても夫婦と子どもを背にし手に少しばかりの物を下げる程度が全財産なので簡単に逃げたものだ」
明治20年代末の赤井川原野は、余市開墾株式会社だけでなく、同じく余市町の漁家のグループが創立した「赤井川農業合資会社」、仁木町などにすでに入植していた内地府県からの団体、新規入植を画策する団体など多くの団体が入植しました。
写真:入植者の小屋がけ(明治44年『赤井川村史』より)
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