余市町でおこったこんな話 その163「大正時代の鰊(ニシン)漁報」
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今年も鰊(ニシン)がとれています。昭和30年頃までとれていた春鰊漁は、地域の経済を支えていたので、豊漁か凶漁かは関係者にとってまさに死活問題でした。
北海道中央水産試験場による鰊の資源管理の研究は、桧山管内の鰊の不漁をきっかけとして、明治40(1907)年から始まりました。流網を使ってサンプル用の鰊を捕獲したり、天候や海水温などの調査を担ったのは水産試験場に籍をおく試験調査船で、北海道近海を縦横に行き来しながら観測を続けました(『北水試百周年記念誌』)。その中の一隻、探海丸がのこした「水産調査日誌」(以下、「日誌」)と、余市水産会支部(漁業協同組合の前身)が記録した当時の「鰊漁況調査報告」(以下、「報告」)、それに新聞のスクラップから、大正15(1926)年の余市の鰊漁についてさぐってみました(大正15年は12月で昭和に改元)。ちなみに水産試験場は余市町への移転前だったので、探海丸の母港は高島港でした。
この年の初鰊の記事は2月24日付の北海タイムスに見えます。
「初鰊 めす一尾 探海丸の漁報」の見出しに続いて古平沖に向かった探海丸が鰊を捕獲したこと、海水温が道内各海域で少し高いことから、鰊の群来は例年よりも早いだろうという予想でした。
探海丸の「日誌」にもこの日の初鰊の記事がありますが、「日誌」によると鰊をとったのは古平沖ではなく美国だったようです。2月22日昼に高島港を出港、午後5時15分に古平町丸山沖約12キロメートル地点で網を入れましたが、漁獲はありませんでした。翌23日に美国沖へ移動し、午前7時に網をあげたところ待望の初鰊がとれたのでした(一緒に宗八カレイも3尾入っていました)。
3月になると新聞が各地の漁模様を伝えはじめます。17日に探海丸が美国で26尾、定置網では小樽市塩谷で14尾、忍路で200尾と徐々にとれはじめ、余市でも21日に313箱(約1トン)の漁がありました。「報告」は記事と比べて1日早く、余市の初鰊は3月20日に大浜中で25尾あがったのが最初となっています。「日誌」や「報告」と新聞記事とでは時間的なものや、取り上げられ方に差があるのかもしれません。
もっとも漁獲があったのは4月2日のことで、午後3時半頃に島泊に大群が寄せはじめ、午後4時にはシリパへ、6時過ぎには島泊とシリパの中間の歌越とユーベッポへ、午後9時になって大浜中が大漁になりました。新聞がこれを伝えたのは4月5日、記事では「歌越沖合は殊に厚群来にて海水は銀色に変じ…中略…今夜輸送される鰊は1万3~4千箱(約37.5キログラム入りの魚箱)…後略」とあります。ここ数日の大漁でこの年の累計3万石を越えたのは古平(3万5千石)と余市だけだったようです。
鰊漁期中、探海丸は高島港を拠点としながら、北は利尻島、南は積丹半島突端や岩内町など、観測と試験的な漁を昼夜問わずに4月いっぱいおこなってデータを蓄積しました。
写真:鰊漁報(大正15年4月5日付けの北海タイムス)
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