余市町でおこったこんな話 その161「配給」
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あけましておめでとうございます。
70年ほど前のお正月の公報に、配給のお知らせが載っています。医療用バターや味噌、醤油の配給についてのお知らせが、昭和23(1948)年1月15日発行分にありました。
太平洋戦争直前の同16年4月から始まった配給制度は、各世帯の人数に応じた切符をあらかじめ交付して、それと引き換えに物資を渡す制度のことで、お米やお酒、マッチ、木炭や石炭、衣料などが対象となりました。
太平洋戦争が始まって物資不足はますます深刻化します。お米の配給ではだんだんと麦や豆がまじり、お米自体も玄米に近いものになりました。それぞれの家庭では少なくなったお米に、イモやカボチャ、大根の葉などをまぜたり、イモ、カボチャだけを食べたりしていました。都市部では空き地や公園を畑にして食糧増産に励み、札幌市の大通公園も菜園になりました(『新北海道史』)。
食料難は戦中戦後と続きます。公報上では昭和30年3月号のお米の配給についてのお知らせが見えますが、物資の窮乏は実質的にはこの頃までだったようです。冒頭のバターと味噌醤油の配給ですが、バターは主に結核患者と自宅療養中の「重病者」向けで、申請は3月20日から同27日までに役場商工係へとなっています。味噌と醤油は3月16日から3日間が配給を受ける期間で、遅配があったのか味噌は10月分、醤油は11月と12月分を町内の23の店舗で配給するというお知らせでした。味噌は1人1か月100匁(375グラム)、醤油は1人1か月1合でした。
昭和20年代に配給された物資を公報からひろうと、家庭用梅漬用のお塩が梅の木のある世帯のみ5キログラム、家庭用調味砂糖は1人300グラム(図)、身欠ニシンは1世帯に200匁、乳幼児用お菓子は2~7歳に1人60匁のアメ、家庭用浴用石鹸は1人1個、お盆用のお酒は二級酒が成年男子1人に2合、ビールは成年男子1人に1本と決まっていました。
戦中の酒類の具体的な配給方法について、『登郷土誌』を見ると1戸あたり月5合だったのですが、「各戸割当の段階で個人的な酒の強さによって、大亀・中亀・小亀のランク付が行われた。大亀は焼酎、中亀は清酒を配分した。」とあります。
終戦の年と翌年のニシンの大漁は、食糧不足を補う朗報でした。しかし、とれたニシンが住民に行き渡ったわけではないようで、漁協関係者の複雑な回想がのこっています。
「~なにせニシンがきても網・油などの資材不足がたたり、水揚げは減るばかり。それに加えて各県から食糧用のニシン買いつけ船が殺到し、とれたニシンを陸揚げ前に海上で買いつけ、積みこんでしまうんですよ。もちろん米や酒と交換ですが…(中略)…ニシン漁でわく岸壁で「その船もどってくれ」と叫んで、男泣きに泣いたものでした。一軒一軒番屋をまわって、漁民を説きふせようとしたが、ニシンがあっても空腹で網をひけない漁師のことを思うと、無理がいえなかった。」
図:砂糖配給のお知らせ「余市町公報」(昭和26年9月15日号)
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