余市町でおこったこんな話 その114「竹鶴政孝のメロディ」

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ニッカウヰスキーの創設者、竹鶴政孝さんとリタさんのことを取り上げた、いくつかの著作から「うた」にまつわるお話を紹介します。
『ヒゲのウヰスキー誕生す』には、二人が出会った頃のエピソードが、こう記されています。竹鶴さんが、単身スコットランドでウイスキーづくりの勉強に励んでいた大正8(1919)年のことでした。イギリス北部の北海沿岸、エジンバラ近くにあったウイスキー蒸留所での実習を終えて、グラスゴー郊外カーカンテロフのカウン家を再訪しました。カウン家は後に竹鶴さんと結婚したリタさんの生家です。再訪したのは、リタさんのピアノと竹鶴さんの鼓の合奏をするという約束を果たすためでした。妹ルーシーさんの提案で「蛍の光」の原曲、「オールド・ラング・サイン」を一緒に演奏し、竹鶴さん、リタさん、ルーシーさんが歌いました。リタさんが奏でた「蛍の光」のメロディに「悲しい、別れの曲ですね」と竹鶴さんが感想を口にしたところ、リタさんは「…いいえ、美しい曲ですが、悲しい曲ではありません。なつかしい昔を偲んで、杯を手に友と語り合おうという歌ですもの」と答えました。
時は下って余市にニッカウヰスキーが出来てからのことです。竹鶴さんがリタさんと一緒に社内の宴会に出られることがありました。工場敷地の中にかつてあった、ニシン番屋を移築して改造した建物での冬の宴席のことでした。一次会の終わりころ、ご夫妻が一緒に帰られる頃合になると、全員が「雪の降るまちを」を歌い始めます。竹鶴さんはにこにこしながら歌の一番が終わるまで聴いていて、二番が始まると席を立ち、ご夫妻はみんなの席を回って挨拶しながら会場を後にされました。ニッカOBの方のお話ですが、窓の外に雪が降る様子が見えて、感動的な場面だったと記憶されています。
リタさんは晩年、体調をくずされ、東京での入院生活でも好転することはなく、最期は余市にもどりました。昭和35(1960)年の12月のことでした。
『琥珀色の夢を見る』には、竹鶴さんの息子さんである威さんが語った、心温まるお話が見えます。「ある雪の日でした。うちの庭から賛美歌が聞こえてくるんです。出てみると、余市の教会の人たちが歌ってくれていました。『何事でしょう?』と聞くと、『リタさんのお加減が悪いと聞いたのでお見舞いに』というのです。…」
昭和55年、スーパーニッカのCMソングとして「昴」が採用されました。前掲書によると、作者の谷村新司さんが単身アメリカへわたった時の心境と、さまざまな困難に立ち向かいながら理想のウイスキー作りを目指した竹鶴さんの心境とが重なってこの歌が出来たとあります。
冬の星座オリオン座の右上に、少し離れて輝く昴が見える季節です。

写真:竹鶴政孝さんとリタさん

写真:竹鶴政孝さんとリタさん

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