余市町でおこったこんな話 その98「初代東屋三楽」

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初代東屋三楽

豊浜町に「初代東家三楽の墓」があります。もともとあったお墓が、昭和36(1961)年10月に再建されたもので、建立者は豊浜町の有志と今善作さん、品田三郎さんでした。お墓の基礎になる玉石は、地元の人たちが一つ一つ浜から運んだものが使われたそうです。三楽さんとその家族が亡くなった悲しいお話は、豊浜町の人たちの間で語り継がれていました。(『余市町の石碑』改訂版)
初代東家三楽については、『余市文芸』にいくつかのお話が掲載されています。「三楽の墓を訪ねて」(『余市文芸』第8号)には、三楽は弟子の楽遊と「板鼻」(群馬県安中市?)で出会い、その慰霊碑が「本所中の郷如意輪寺」(東京都墨田区)にあると記されているので、北海道へは季節的な巡業で訪れていたものと思われます。
明治時代はニシン漁がとても盛んな時期で、親方に雇われた漁夫が道南や東北各県からやって来て賑わっていました。漁の季節になると、そうした漁夫らとともに、眼鏡や刃物、くしや糸巻などを扱う小間物屋や薬売りなどに混じって、旅芸人もやってきました。三味線を弾きながら唄う浪花節の旅芸人は、親方の居宅に身を寄せながら芸を披露して喜ばれていました。
明治29(1896)年2月、三楽は妻子とともに積丹まで来ました。そこに妻子を置いて、ひいきにしてもらっていた余市の親方の家々へあいさつ回りに出かけました。
4月になって豊浜町の親方、小黒家の使用人が豊浜町と潮見町間の峠に入ったとき、木立の下で亡くなっていた三楽を見つけました。積丹を発って小黒家に無事到着した三楽は、余市の市街地まで足を延ばすためにすぐに出発し、直後に猛吹雪にあって遭難して亡くなってしまったものと思われました。すぐに、豊浜町の人たちが総出で三楽の亡き骸を戸板に乗せて運び、積丹から妻子を呼んで葬ったそうです。
その後、三楽の妻と3人の娘たちは親方衆の好意で豊浜で暮らし、長女のアサ子は髪結いとして一家の生計を助けていました。三楽の死から15年後の明治44年8月16日、豪雨で豊浜町を流れる湯内川がはん濫し、自宅が浸水するほどの激流にアサ子は流され、数日後に海岸で発見されるという悲しい出来事がありました。
昭和36年10月に再建されたお墓の前にあった墓石は、地元産軟石で作られていたという証言が前掲書中にありますが、今では確認することが出来ません。また、東家三楽の名前についても、筆者である芝さんは、北海道で亡くなって如意輪寺に石碑を残す三楽が関東では東亭を名乗り、同一人物が北海道で東家を名乗っていた可能性を指摘しています。
三楽のように、明治時代にマチからマチへ芸を披露して旅をしていた芸人は、唄、講談(調子をとりながら軍記物や政談を読み上げる)、曲馬(馬の曲乗り)など数多くいましたが、その起源は古く、江戸時代の松前や江差など道南地方では19世紀にすでに見られました。蝦夷地でも、幕末には寿都町で三味線語りや軍談ものの旅芸人の記録がのこされていますが、そうした庶民の記録はとても少ないものです。三楽のお墓のように地元の有志によって語り継がれるのは珍しいことで、地域の歴史が遺された好例といえます。

写真:初代東屋三楽のお墓

写真:初代東屋三楽のお墓

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