余市町でおこったこんな話 その93「リンゴジュースとサイダー」
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リンゴジュースとサイダー
余市リンゴを使ってジュースにした始まりは、明治44(1911)年のことでした。『余市町郷土誌』によると、同43年2月、沢町に資本金3万円(当時)で余市林檎酒株式会社が創立されました。
最初は、リンゴやそのほかの果物の加工とリンゴの委託販売をしていましたが、翌44年にリンゴ酒とリンゴサイダーの製造を試験的にはじめたところ好評で、「一日一万余(本?)」の製造高を誇るまでになったそうです。
リンゴサイダーの製法は、絞ったリンゴ果汁に「純白色砂糖」を混ぜ、水に「溶解」した後にろ過して精製したとあります。サイダーを天皇家へ献上したこともありましたが、大正2(1913)年には廃業してしまいます。
余市林檎酒の前身は日本果実酒株式会社(明治39年創立)といいました。
『余市農業発達史』に同社の技師だった間宮さんの述懐が見えます。間宮さんは三宅島のサツマイモや自生するイチゴでお酒の製造を試み、次いで青森県弘前市のリンゴでジュースやサイダーを作って関東方面に出荷したりしました。その頃、大蔵省醸造試験場の技師だった肥田さんの紹介で、余市からリンゴ酒をたずさえて上京していた山本豊作さんと出会いました。お二人が話し合いを重ねた結果、間宮さんが持っていた果汁製造の機械を余市に移すことになったのが同社設立のきっかけでした。
さて、果汁といえばニッカウヰスキーです。同社の創立当時の社名、大日本果汁株式会社の「日」と「果」の二文字から「ニッカ」となったことは、多くの方がご存知のことと思います。同社は昭和9(1934)年7月に創立され、すぐにリンゴジュースづくりにとりかかりました。
創業者竹鶴政孝さんの『ウイスキーと私』によると、濃縮する機械はフランス製のものを用い、またビタミン分を減らさないために低温と真空状態を保ちながらの製造をしたりと工夫をこらしました。出来たリンゴジュースは1本にリンゴ5個分の栄養が入っていて、30銭の値段でした。
栄養に富んでいたので病院に納品するまでになりましたが、「ラムネ、サイダーの時代」だったことや、清涼飲用水としては値段が高かったことからか売れ行きは順調とはいえず、竹鶴さんは「小樽あたりでも「赤字会社のジュースか」といって、ばかにされる始末で、これには参った。」と同書中に書かれています(ちなみにこの頃のサイダー1本が16銭)。
「その23」で紹介した日本酒「十一州」を作っていた余市酒造株式会社は、戦後まもないころには余市農産加工場の名前で濃縮ジュースを作っていました。同社設立の目的のひとつが「リンゴの廃果の活用」で、ホクレンと農協(余市町農業会か)の共同出資で創立されました。ホクレンの技術指導のもとで操業され、えん麦加工、トマトジュースやグリーンピース、水産物の缶詰製造とともに濃縮ジュースも作られていたとあります(『余市農業発達史』)。図のラベルには「北海道農産加工有限会社 余市工場」とあって、昭和20年に認可を受けた旨の印字があるので、これが同社のものなのかもしれません。
「こんな話」では、地酒(ウイスキーとワイン、日本酒)をこれまで紹介してきましたが、明治26年当時にはあったといわれる「ヌッチ川」、「志ら藤」、「朝日山」といった余市産の日本酒に次いで、「地ジュース」にも100年の歴史があることになります。今では JAよいちさんと、北王よいちさんの2つの工場から、余市リンゴのジュースが作り出されています。
図:リンゴジュースのラベル(北海道農産加工有限会社 余市工場)
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