余市町でおこったこんな話 その92「身欠(みがき)」
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身欠(みがき)
2月中旬には鰊(にしん)のまとまった漁獲があり、地物がお店に並んでいました。昨冬に記録した900トン余りの漁獲(後志管内)を今年は上回るのでしょうか。
さて鰊料理といえば、頭の中にいくつ浮かびますか?『鰊とその利用』には、加工と調理の方法、部位が紹介されているニシン製品11種類が挙げられています。順にあげると開き乾(干し)、身欠鰊、数の子、白子、丸干鰊、塩鰊、スシ鰊、塩汁、切込み漬、燻製鰊、鰊漬です。このうち開き乾と丸干鰊は、内臓などを除いた後に乾燥させるものですが、両者では塩の漬け方が違っていて、前者は樽に入れてよりしっかり漬けるものです。白子は煮物用、塩鰊はその名の通り、樽に塩と鰊を交互に重ねていって押石を乗せて作ります。塩汁はスシ鰊を作った樽の下に残った汁のことで、布でこして不純物を取り除くとしょう油の代用になりました。少しくさいので、ネギや野菜と煮た後にこすとちょっとよくなりました。
身欠鰊は、鰊の加工品として今でももっとも一般的です。前掲書では、身欠を大別して「本身欠」と「外割身欠」に分けています。内臓やエラ、数の子などを取り除き、乾燥した後に包丁で背骨と身を割きますが、昔は背側の身と背骨に分けていました。背側の身が身欠、残った方が胴鰊という肥料になりましたが、これからさらに背骨を除いたものが外割身欠でした。
身欠の語源と起源はさまざまあります。身欠といえば鰊製品の代表的なものと思いますが、フグの内臓を取り除く処理も身欠といいます。腹を取り除いた魚というのが語源かもしれません。
鰊の身欠が文献に見えるのは、江戸時代、18世紀はじめのことで、享保年間(1716~1735)の松前から本州への移出品中に「みかき」が見られます(『松前蝦夷記』)。もともとアイヌ民族の保存食だったという説もあります。明治23(1890)年の『北水協會報告』第五十五号中に「身欠鰊の如き…(中略)…本邦に在りては「アイヌ」伝来の製法によるが…」との一文が見えます。しかし、江戸時代、アイヌ民族が交易品として和人側へもたらした鰊製品が身欠の始まりだったと考えるには根拠に乏しいようです。
保存に向いた蛋白源として江戸時代から道外に広く流通した身欠は、京都の鰊蕎麦や、福島県の鰊漬(身欠を山椒とあわせて漬けたもの)など地域の特産品として有名になったものもあります。
身欠を使った鰊漬けも古くからありました。天明年間(1781~1789)の『松前志』中には「(身欠を)晩秋これを水につけ漬物とし鰊漬となづく」とあります。かつては大根や白菜、今はキャベツともあわせて漬けます。昭和20年代の鰊漬への思いを語った一文を見つけました。「鰊の白菜漬に七味唐辛子をふりかけて、おいしく食事ができるようになるまでは、いくら北海道に住んでいても、真の北海道人にはなりきって居らぬ証拠ですよ。」と語ったのはY町のH旅館の老主人とあります(『続たべもの草紙』)。
写真:身欠の製造(大正時代 奥寺漁場)
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