余市町でおこったこんな話 その80「スキー」
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国内のスキーの歴史は明治44(1911)年、新潟県上越市で行われたオーストリア人のテオドール・フォン・レルヒ少佐による陸軍向けのスキー指導が始まりとされています。スキー板自体が国内に持ち込まれたのは同39年のイギリス公使館付武官のデルメーランド・キーフさんが札幌月寒にあった歩兵隊の将校に寄贈したもの、または同41年に東北帝国大学農科大学(現北海道大学)に赴任したドイツ語教師のスイス人ハンス・コラーさんが二本杖スキーを持ち込んだというふたつの記録がのこっていて、そのいずれかがスキー板の最初のようです。
さて、スキーの普及に熱心だったのは「なんといっても、札幌、小樽」(『さっぽろ文庫』16)でしたが、余市町でも大正時代の末には数人のスキー経験者がいました。
前回紹介した余市高女に昭和6(1931)年に赴任した狩野豊七校長はスポーツ奨励に熱心な先生でした。スキー板30セットを学校で購入し、全日本スキー連盟指導員の資格を持っていた高女の教師だった遠藤源四郎さんに指導を託しました。高女では学校裏手の斜面にスロープを作って滑りましたが、当時は袴にゴムの長靴という格好で、「スキーが終わって帰ると袴の裾に雪がしばれついて取るのに苦労した。」(『余高五十年』)というお話ものこっています。
余市中学校(現余市紅志高校)のスキーの始まりは山岳部からでした。その名のとおり登山を目的とする部活動でしたが、昭和9年に山岳スキー部となってスキー登山を、さらに競技大会にも参加するようになりました。生徒らのスキーとの関わりは競技スキーだけでなく、冬期のスキー通学も許可されていました。そのためスキー板をはいて通った生徒が多く、市街地をスキーで通行しても自動車の少なかった頃なので叱られることもありませんでした。「余中の生徒の足腰は強い」といわれたそうですが、その理由のひとつはスキー通学だったのかもしれません。
同17年には小樽市で全国中学校スキー大会が開催され、余市中学の茶木選手が回転競技で第3位、新田選手がジャンプ競技で第6位などとあります(『余市文教発達史』)。その後のアルペン、ジャンプでの余市の選手の活躍はいうまでもありません。
昭和9年2月10日には余中全校生徒による湯内岳(645メートル)のスキー登山がありました。その日は午前7時に登山開始、雪のない地方から赴任した教師は登り下りとも生徒の手を借りずには進めませんでした。滑り止めにスキーに細びき(麻などを縒った細い縄)をまいて歩くように登り、山頂では国旗を掲げて遠く皇居を拝み、校長先生のお話を聞いた後に帰路につきました。その道行きは競争でした。生徒たちが到着する時間を見計らって校庭には大釜にこしらえた豚汁が用意されていたのです。残念ながら遅れた生徒に具は残っていなかったそうです。
戦中戦後にはこのスキー登山は違った意味で厳しいものになりました。食糧や燃料不足が極めて深刻で、当然豚汁は用意されず、下山には必ず学校での暖房用の薪を背負って戻らなければならなくなり、そのためのスキー登山が年に数回ありました。
写真:スキー行軍(『余高五十年』より)
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