余市町でおこったこんな話 その77「名誉町民」
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余市町の発展に大きな功績を残した町民、または町に特別にゆかりのあった人に対して名誉町民の称号が与えられるように町の条例が定まったのは昭和40(1965)年のことでした。新聞報道によるとその最初の名誉町民として選出されたのは3名の男性、猪俣安造さん、坂本角太郎さん、竹鶴政孝さんでした。
町長が推薦した9名の委員と町長が決めた推薦者の案が議会に提出され、昭和40年2月23日の臨時議会において満場一致で承認されました。名誉町民になると名誉町民章が贈られて、特典として(1)公の式典への招待、(2)その功績を長く伝える、(3)公の施設の使用について特典を与える、(4)亡くなった場合の公葬と弔慰金の贈与といったことでした。それでは名誉町民としての功績をいま一度、紹介しましょう。
猪俣安造氏
明治18(1885)年、新潟県刈羽郡宮川(現在の柏崎市)の猪俣家に生まれ、余市町で大資産家となった祖父、猪俣安之丞の家督を相続しました。前述の報道では、漁具漁網の改良、船舶建造や遠洋漁業開始によって余市町の漁業振興に寄与しましたとあります。
『猪俣家小伝』によると、第四代余市郡漁業協同組合長でもあり、漁港の大規模な修築も行いました。また、私財を投じた黒川町の沼沢地一円(余市橋の駅側一帯の3万9千坪(約12万9千平方メートル))の埋立てと余市橋架橋や、水産試験場付近から余市駅までの路線でレール上を走るガソリンカー敷設、沢町小学校と余市中学校(後の余市高校)への敷地寄付、水産試験場誘致、北海信用金庫の前身である余市信用組合設立、北海道銀行(当時、後に拓殖銀行に統合)の役員としての活躍があげられています。
列挙された功績は、とても一個人が手がけることではない程の大きなものです。
坂本角太郎氏
明治30(1897)年、石川県羽咋郡に生まれました。大正10(1921)年、余市町で雑貨商経営、昭和5(1930)年に商工会議所副会頭、同9年に町会議員に当選しました。この頃に沢町と黒川町の大火で困っている人々を救おうと復興期成会を結成して会長となって陣頭指揮に立ちました。
戦後間もない昭和22年に町長に初当選、4期16年間の在任期間でした。また、北海道漁港協会長、全国漁港協会副会長にも就任しました。
坂本町長はまた、観光開発に力を入れ、全町公園化を計画、モイレ山開発、天然水族館建設、温泉開発に力を注ぎました。
竹鶴政孝氏
明治27(1894)年、広島市加茂郡竹原町に生まれ、大正7(1918)年から3年余りの英国留学を経て、昭和9(1934)年、余市町に大日本果汁株式会社を設立、同27年にニッカウヰスキー株式会社に社名変更、現在まで世界に誇るウイスキーを世に出し続けている同社の創設者であることはご存知のとおりです。
また、竹鶴さんは町議会議員、余市体育連盟初代会長、商工会議所初代会頭としての顔も持ち、町の発展に尽くし、陸上競技場などの運動公園の整備や、竹鶴シャンツェ設置にも力を注ぎました。
この初の名誉町民であるお三方を見ると、猪俣さんにより町のインフラが整えられ、坂本さんによる舵取りのもとで町の戦後復興がなされ、竹鶴さんによる余市町のアピールやイメージアップ、商工業の発展、スポーツ振興が進んだといえ、大正から昭和の時代に現在の余市町の基礎を作った人たちということになります。
写真:名誉町民決定の新聞記事(昭和40年2月25日)
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