余市町でおこったこんな話 その75「余市海岸の砂丘と久保先生」

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昭和40(1965)年5月10日に第1号が発刊された余市高校の『研究紀要』は、余市高校の教職員で構成された教育研究部により刊行され、教科ごとの研究やテレビを利用した授業の効果、生徒の学力向上、海外の農村視察の報告、生徒の意識調査など、そのテーマは多種多彩でした。
余市高校でながく地理を担当された久保武夫先生は、『研究紀要』の第2号に「余市海岸の砂丘」、第3号に「余市平野の地形と水害」と題した論文を報告されました。
先生は余市町の東部市街地の大半を構成する「大川砂丘」と「黒川砂丘」と「登川低地」に着目しました。砂丘や段丘のなりたちについての地理学的調査は先生のライフワークだったそうです。
さてその論文の中身ですが、先生は海岸線に平行して400~500メートルの幅で堤防のようにのびる「大川砂丘」(現在の国道5号線)、「大川砂丘」より内陸にほぼ同じ高さで同じ向きにのびる「黒川砂丘」(現在の登街道)、それらふたつの砂丘にはさまれ旧登川が流れる「登川低地」が何故できたのかを地理学的な目で見つめたものでした。
歩いてがけ地や砂浜を観察し、余市川と登川が「吐き出した」土砂が沿岸近くの潮の流れでフゴッペ岬やモイレ岬に堆積されて砂丘を少しづつつくったものと推定し、また、砂丘上に見つかる遺跡の分布と、遺跡から発見される土器から砂丘が出来た時期を考察しました。そうして最初に縄文時代後期(およそ4,000年前)ころに「黒川砂丘」ができ、その後の縄文時代晩期(およそ3,000年前)以降に「大川砂丘」ができたものと結論づけました。
また「大川砂丘」の市街地の周辺には当時、ぶどう園が多く「適地適作の好例」と称え、登街道の北側にリンゴ園が、南側には水田が広く分布していることも砂丘の地質や水はけが影響を与えていることを指摘しました。
先生は余市高校の郷土研究部の顧問でもありました。昭和28年に発足した郷土研究部は久保先生の指導のもと、おもに町内の遺跡の発掘に参加し、昭和30年代後半には50名ほどにもなった人気の部活動でした。
当時を知るかつての部員は先生のことを「とにかく真面目な先生で、生徒みんなに慕われていたなあ。」と教えてくれました。部の活動は日曜日が多く、シリパ岬や近隣の博物館見学をしたことを懐かしそうに語っていただきました。
「先生と部員はカニ族(大きなリュックを背負って旅行する若者のこと。後ろ姿がカニに似ているためこう呼ばれました)のはしりだったと思うよ。くすんだオレンジ色をした帆布製の大きなリュックを背負って汽車に乗るんだけど、道内を汽車で安くまわれる周遊券を買って向かった先といえばたとえば網走市で、その頃から有名だったモヨロ貝塚を見学したのも郷土研究部らしいし、噴火前の有珠山の火口近くにテントを張って泊まったこともあったと聞いたことがある。」
全道各地から郷土研究部の高校生が伊達市に集結して、共同発掘をしたこともあり、余市高校の生徒も先生に連れられて調査にたずさわりました。また町内ではかつての八幡神社の跡地を整地した際に、偶然、ストーンサークルが見つかったことがありました。地中にあってその存在がわからなかったためブルドーザーで押されて崩れたものを郷土研究部が駆けつけて復元したこともあったそうです。
先生がライフワークとされた段丘や砂丘のなりたちは、指導した部員による郷土史研究や遺跡の発掘成果と、先生の地道な現地調査の成果とが両輪となって、余市高校の『研究紀要』に結実したように思えます。

図:大川砂丘形成時代 「余市海岸の砂丘」から

図:大川砂丘形成時代 「余市海岸の砂丘」から

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総合政策部 政策推進課 広報統計係
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