余市町でおこったこんな話 その74「余市鉱山のにぎわい」
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「こんな話その36」で紹介した余市鉱山は、大正7(1918)年に山道村(豊丘町)において山本喜代松さんと藤原七四郎さんの二人が鉱石の露頭を発見したことが操業開始のきっかけでした。豊浜町での鉱石発見の歴史は更にさかのぼった明治18(1885)年のことですが、『北海道鉱山略記』(明治22年刊)によれば、その2年前の明治16年、湯内(現在の豊浜町)在住の中村留吉さんが湯内川沿いの「ユノサワ」の小川に「漁猟」に出かけて「光アル石」を発見しました。その石は「銀銅鉱」だったことがわかり、中村さんと共同で竹内孫兵衛さん、小黒喜三治さん、大竹作右衛門さんらが試掘を願い出て成功し、「ユーナイ銀銅鉱」として明治22年に開坑したとあります。
山道村の鉱山(山道鉱区)が大正7年に、また「ユーナイ銀銅鉱」が後の「湯内鉱区」として昭和9年に住友合資会社により買収されました。その後昭和13(1938)年に山道村(現在の豊丘町)に選鉱場が完成し、同年には7.4キロメートル隔てたふたつの鉱区を結ぶ山越えの索道が完成したのは既述のとおりです。
こうして採鉱の拠点となった豊浜町には余市鉱山事務所(住友金属鉱山株式会社余市鉱業所)が、豊丘町には選鉱場が、駅前にも資材運搬のための出張所が置かれて資材運搬の事務を行いました。
同鉱山は金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガン鉱を産出する55の採試掘鉱区があり、選鉱された鉱石のうち銅鉱と鉛鉱は共和町国富にあった同社の精錬所へ、亜鉛鉱などは他社へ売却されました。
同社の『事業案内』(昭和30年)によれば、当時の職員数66名、従業員(請負者含む)700名の在籍を数えました。社員や関係者の家族を含めれば2千人を超える人たちの集落が昭和30年頃に豊浜町にありました。
当時を知る方にうかがうと、集落は山側から桜町、柳町、松並町と3つの街区に分かれて、この3地区対抗の運動会があり大人も子どもも参加して盛り上がりました。冬には山あいの地形を利用したスキー大会もありました。
職員用の住宅は400戸、8棟の独身寮がありました。また「数戸」の無料の共同浴場があって、鉱山の仕事に関係する豊浜町の住民も(関係していない人も)利用できました。鉱山職員のための病院は豊丘町、豊浜町の両方にあって入院施設も整っていました。
買い物も万全でした。お米、各種食料品は鉱山直営の配給所が、日用品販売と食堂は指定商店が、また昭和29年には二階建ての紘栄デパートが完成し、余市専門店会が運営してあらゆる日用品を購入することが出来ました。1階には食料品などが、2階は婦人服、ワイシャツ、鉱山で使う作業服などが売られていました。おこづかいをせがんだ子どもたちのお目当てはジャムをはさんだサンドイッチ(5円)でした。またデパートに隣接して床屋さんもあって、余市町内で200円以上した散髪代がここでは20円でした。
映画も見られました。紘栄館は140坪(約463平方メートル)、収容人員600名で映画、演劇、スポーツ等の諸設備完備で、当時、余市町の市街地の大人料金が100円ほどでしたが、紘栄館はなんと5円でした。紘栄館に併設した従業者クラブという施設には3つの和室があって、囲碁、将棋、麻雀、俳句、釣り、カメラ、ブラスバンドなどの同好会の活動の場となり、また職員の結婚式や宴会場にも使われていました。
屋外設備も充実し、スコアボードがついた野球グラウンド、バレーコート、テニスコート、土俵、陸上競技設備が整備され、なかでも野球チームは道内の金属鉱山21社の事業所各チームの大会で全道優勝を勝ち取り、東京都内で行われた全国大会でも準優勝となるほどの強豪でした。
写真:紘栄デパート(『事業案内』住友金属鉱山株式会社余市鉱業所:昭和30年より)
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