余市町でおこったこんな話 その70「明治時代の商店街」
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明治20年代の余市町の市街地は浜中町から沢町一帯でした。
北海道庁が明治29(1896)年から実施した開拓状況の調査『北海道殖民状況報文』では、「余市市街」の項に現在の浜中町から沢町、富沢町、港町方面について「明治二年頃はすでに沢町は諸種の小売商店を見る…市街地は梅川にまたがり縦横に区画し…海岸に沿って北には山碓町東に浜中町あり沢町および富沢町は諸商店櫛比(しっぴ)してもっとも繁盛の街衢とし中町は料亭妓楼(ぎろう)多く…(中心部は)戸長役場、警察分署、郵便電信局、区裁判所出張所、森林監守検査員駐在所、…小樽銀行出張所、余市開墾株式会社、劇場、旅人宿、料理屋…」と報告されています。
明治35年の『余市市街明細地図』でも、浜中町から沢町方面は海岸沿いに並ぶニシン漁場の親方宅が見え、神社の参道沿いと現在の中町線沿いに整然と区画された市街地が見えます。
余市町の中心街はその後もひき続き沢町など町西部でしたが、明治20年代後半頃から官林が解放され、内陸への入植が順調に拡大するのと同時に余市川河口付近の大川町に徐々に各種の商店が増えてきました。それは黒川や山田町方面、仁木町、同大江地区へ入植した開拓者による日用品の需要が高まったのが理由でしたが、さらには小樽への船便や内陸への馬車による物資輸送の結節点としての重要性が増したからでもあり、明治35年の余市駅開業と同37年の函館本線の全線開通の後は駅前の商店街も発達しました。
前掲書によれば大川町は、明治15、16年頃に漁業者が副業として小売業を営む程度のものでしたが、10年ほど後には学校、病院、巡査駐在所、劇場、旅人宿、料理屋が出来てきました。
大川町の商店の増加は過当な低価格競争を招きました。お米の値段は仕入先の小樽と比較して百分の三ほどの上乗せしかせず、呉服類は同様に百分の十五ほどの上乗せ価格でした。当時は小規模なお店が多かったそうですが、商店街は「多望の地」と捉えられて商況は順調に推移しました。
前掲地図の余市川河口付近は密集した市街地が東西に長く見えますが、商店街の東端は現在の三吉神社付近のようです。そこから少し小樽寄りには人家とともに柵で囲まれた畜舎のような建物と「牛乳板垣」と掲げた旗が見えます。
『小樽區外七郡案内』や『後志国要覧』によれば板垣文蔵氏は余市町における「牛乳販売商の鼻祖(びそ)」とされ、氏は新潟県出身で明治17年に来道、小樽市稲穂町の松田直次郎氏のもと同18年に余市町において乳牛2頭で牛乳販売を開始し、同27年には独立し乳牛を増やして順調に営業を続けました。
『~明細地図』の余市駅付近には「カネマン宮原」と見えます。宮原卯三郎氏は明治29年に黒川町で味噌醤油醸造の宮原商店を開店し、「保満禮(ほまれ)味噌」や「露印醤油」などを販売していました。
また『~要覧』によると余市駅停車場前には他にも駅構内で余市リンゴを販売していた「曲又支店待合所」、和洋料理と生蕎麦が人気だった「丸松印松乃屋待合所」、札幌で修行を積んで美しいお菓子を製作販売した「山ト印東陽軒菓子舗」などがありました。
写真:板垣牧場(『小樽區外七郡案内』)
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