余市町でおこったこんな話 その68「神様とヤン衆」
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昭和3(1928)年3月29日の新聞紙上に「ここ五六日の中に二万の神様 鰊の余市へ降りる そろそろ出てきた鰊気分」の記事が見えます。ニシン漁が盛んだった時期、北海道の沿岸各地には雇われて東北や道南からたくさんの労働者がやって来ました。
この年の余市駅に到着する漁夫が2万人を超える勢いだという記事ですが、この2万人には余市だけでなく、お隣の古平町や積丹町の漁場へ向かう人たちも含まれていて、その様子は「実に見物」であるというものです。
ニシン漁のために雇われて働く人たちの呼称は「ヤン衆」が一番ピンと来るかも知れません。ヤン衆は演歌の歌詞の中や居酒屋の店名などで目にします。
余市の漁場では彼等を指してヤン衆とは呼ばず、「若い衆」や「雇い」と呼んでいました。経営者側が残す記録や文書に見られる労働者の名称は「雇用漁夫」、出身地域を指して「秋田漁夫」「南部漁夫」などでした。
ヤン衆の語源はさまざまで、内田五郎さんの『鰊場物語』によるとアイヌ語に起源をもとめるもの(“ヤウン衆”アイヌ語でヤウン・モシリ(陸の・国)から内地衆となったもの)、東北の方言(“家内衆”家族や親類のまとまりを指して家内と呼ぶことから)などが挙げられていますが、決定的なものはないようです。また『ニシン場の用語集』では「外部では彼らをやん衆と呼ぶが、ニシン場内では禁句である。」ともあります。
古い新聞記事を見ると「神様」、「鰊殺しの神様」、「若い衆」が登場します。ヤン衆という言葉がまったくない訳ではなく、昭和4年の『北海タイムス』では「にしん場レビュウ 余市にて」という記事で、ヤン衆のことを「彼等はきまった親方といふものを持っていない。その時々の風模様次第でフトコロのあたたまりそうな漁場へ転々する。」と表しています。また前掲『鰊場物語』中では、12月後半になると、それまで石狩の鮭漁場で働いていた人たちが鰊漁場へ職を求めて来るものの、少しでもお金が入ると皆飲んでしまって、また別の漁場へと逃げていってしまう人たちがいて、彼らを指して「石狩ヤン衆」と呼んでいたそうです。
『鰊漁覚書き』によると、様々なところから来町して漁場を渡り歩く人は当然定まった親方を持たない人たちで、そうした人たちを「とわたり」と呼び、水産試験場の前あたりには「とわたり」専門の宿屋が何軒もあったそうです。長くニシン漁を営む親方は、地元または東北、道南の船頭や船頭が連れてくる「雇い」の人たちと昔からの信頼関係で結ばれていたので「とわたり」を雇うことはめったになく、昔からの親方でない者がそうした宿屋におもむいて「とわたり」を雇いました。
こうして見るとヤン衆という言葉は、地域差はありますが現場では使われず、鰊漁場で働く漁夫たち全部を指すものではなく、親方と旧知の間柄で長く雇用関係にあった人たちには当てはまらないもので、ごく一部の人を指した言葉が一般的になったようです。
写真:イラストのヤン衆たち(「にしん場レビュウ」昭和4年4月8日 『北海タイムス』)
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