余市町でおこったこんな話 その65「大火」
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余市町では「○○町の大火」と呼ばれる大きな火事がいくどかありました。
『余市小史』には明治から昭和にかけての14件の大規模な火事が見えます。その中でも焼失戸数200戸を超えるものは昭和7年と昭和8年に連続して2件ありました。
昭和7(1932)年5月27日未明に沢町で発生した火事は『小樽新聞』に詳しく報道されていて、「澤町目ぬきの場所数町四方(澤町繁華街中心部のおよそ1万平方メートル)はまったく紅蓮の炎に包まれ~、北は海岸なぎさまで焼きはらい~人畜に死傷の無かった事は不幸中の幸ひであった。(昭和7年5月28日)」とあり、火勢は小樽から見えたほど大きかったそうです。焼け出されて行き場のなかった人たちは沢町小学校に避難し、富沢町にあった劇場遊楽館には役場出張所が設けられ、水産試験場と協力して炊き出しにあたりました。
翌8年4月11日11時40分に大川町に発生した火事では、大川商店街の海側を中心に180戸を焼失させました。「~猛火は大通りに向かってさかんに火の粉を浴びせ~浜手に面した一流料理店を焼きはらい~ついに余市座の大建物も焼失した。これがため付近一帯の漁師の家はこの大建物の風下となり、たちまち三十数戸がなめつくされ砂浜の小さな小屋に至るまで残らず焼きはらわれ」ました(昭和8年4月13日の『小樽新聞』)。
大火後の新聞紙上には鮮魚店、畳店、薬局、呉服店、菓子店などから火災のお見舞い広告がずらりと並びました。義援金や見舞品が、遠くは京都の東本願寺や大阪の靴下会社から、もちろん町内の個人や商店などからも続々と集まりました。
また新聞報道では、被害にあった誰あてに、どこの保険会社から、いくらの保険金が、いつ支払われたかも記事となりました。余市町は火災保険料が他の町に比べて高額だったと言われていたことがありました。これは木造建築が密集する市街地に火事が発生すると被害が広範囲に及んでしまう時代、余市町に火事が頻発したことが背景にあったからなのかもしれません。
昭和28年5月に黒川町の47戸が全焼した火事の後、月刊郷土誌『よいち』5・6月合併号に「今回の火事を省みて」と題した懇談会の記事が掲載されました。出席者は消防長(当時)や消防団長、町助役、町議会議員の面々でした。そこで話題になったのはホースやポンプなどの不足、黒川町の水利の悪さ、ニッカウヰスキー敷地内の池の消防水利としての可能性、近く敷設される上水道工事の一環として水利が悪い黒川町に消火栓をつけて欲しいことなどの要望でした。
また消防団からは消防署員の増員も要望されました。もともと全国各地の消防組織の始まりは、時代劇で見られる庶民の町組織として編成された町火消しの「いろは四八組」で、それが明治になって消防組となったものが消防団の前身となった例が多いようです。
前掲の『余市小史』には明治の初め頃、町内に「よ組」「い組」「ち組」の3つの私設の消防組織、消防組があったことが書かれています。それによると「よ組」の組頭は仲町で貸座敷業を営んでいた辻村初三郎、「い組」は富沢町で劇場を経営していた高本清七、「ち組」は大川町の渡世人松井重次郎とあります。それらの消防組は「各々身内の者を集め勢力を張り、出火に際してはその消し口の争奪などを演じ、ことある毎に争いを起していた。」とあります(『余市郷土誌』)。しかし明治30(1897)年に富沢町であった火事の際、「い組」組頭の高本が所有していた劇場が焼失し、それがきっかけとなったかのように「火防伊達衆」の勢いが衰えました。この少し前の明治27年には消防組規則が制定され、徐々に公設の消防組織が整備されていきました。
写真:廃墟の如き焼跡(「小樽新聞」昭和7年5月28日)
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