余市町でおこったこんな話 その64「イカ」
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昭和39(1964)年11月、新聞紙上に「イカどんと水揚げ 余市岩内沿岸 全道的不漁をよそに」の記事が見えます。余市と岩内の沿岸だけ好漁だったこの年のイカ漁は、全道的には不漁だったため、1箱の価格は前年の3倍以上の1,300円になりました。また同月16日の水揚げ12,000箱(168トン)も記録的で、「ひと朝九百万円の開町以来の大漁」に港は賑わいました。余市港から出漁したのは地元の船だけでなく函館、根室、八戸の船も集まって70隻にもなったそうです。しかもこの年は、春に期待して出漁したオホーツク沿岸のニシン沖刺網漁が流氷とその後の高水温のため「経費も出ない」ほどまったく振るわず、夏のイカ漁、ブリ、マグロも不漁と暗いニュースが続いた後の朗報でした。
北海道のイカ漁が記録にあらわれるのは18世紀末、「此物近年より海人捕り獲ることを得たり 福山(松前地方)殊に多し」とあります(『松前志』)。その頃は漁獲のほとんどをスルメに加工し、やがて幕末から明治にかけて清国に輸出される製品のひとつになりました(『北海道漁業志稿』)。同書には代表的なイカの加工品としてスルメ、塩辛、烏賊醤油の製造方法が紹介されています。
明治中頃のイカの産地は今と変わらず渡島半島沿岸地方が筆頭で(函館と上磯郡、松前郡、爾志郡など)、それに次ぐのが後志地方でした。後志では久遠郡(当時)が突出し(後志全体の5割ほど)、寿都郡が続きました。
明治中期、イカ漁に従事する人たちは段々と増えました。毎年佐渡から出稼ぎするイカ釣り漁夫たちが大金を稼ぐことに触発されたのが理由とされています。しかし、後から始めた人たちは佐渡の人たちほど漁が上手くなかったので、儲けることができずやめてしまった人もいたと前掲書にありますが、これはイカ釣りの漁具を持ち込んだのが佐渡の人たちだったことと関係がありそうです。佐渡からの出稼ぎ漁夫が何百人も来道した函館では、100日ほどの漁期中に彼等が滞在するための長屋が多く建てられました。
イカ加工品の全道生産高は大正時代にはニシンに次ぐ第2位でしたが、昭和15~20年頃にはニシンやイワシを抜いて首位になったこともありました。
昭和15年の余市のイカ漁の着業数は20隻、漁獲は約260トンを数えました。その後30年代までの着業数は増減しながら経過しますが、報道のあった昭和39年には着業数が急増し、漁獲も2,187トンと桁違いの漁獲になります。これには昭和33年頃から積丹沖の漁獲が増え始めたことや漁船の大型化と装備の近代化が背景にありました(『余市漁業発達史』)。
秋のイカ漁は本号が皆さんのお手元に届く頃にはピークを迎えていることと思います。近年の特徴は漁期のはじめは小ぶりなものが多くとれることですが、秋には大きなスルメイカがとれることが期待されます。今夜はイカでもイカがですか?
写真:秋イカに活気(昭和39年11月7日の新聞報道)
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