余市町でおこったこんな話 その62「日新館と日進館」
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1か月ほど前の7月末、町内の小中高生の一行17名が福島県会津若松市を訪れました。
「百四十年前はお世話になりました。」最初の訪問地、会津藩の藩校日新館を復元した博物館施設で一行を迎えた案内役の男性の言葉です。
戊辰戦争の最後の戦いとなった会津での戦いは会津戦争と呼ばれ、白虎隊の悲劇が有名です。その白虎隊を構成した若い藩士らが通った日新館は、19世紀初めの会津藩主松平容頌公が設立し、儒学、国学、医学、兵学、武術、天文学などを教えた総合的な学校で、日新館の名称は中国の儒教の経典「大学」の中にある「日に新たに、日々に新たに、又、日に新たなり」からとられたものでした。
そこでは10歳で入学する前の6歳から集団教育が始まりました。年長者への尊敬の気持ちや礼儀作法を覚えるために近隣の遊び仲間10人程度で集団を作り「什の掟」を皆で復唱しました。年長者に背いてはならない、嘘を言ってはならない、卑怯な振る舞いをしてはならない、弱いものをいじめてはならないなど7つの掟があり、最後に「ならぬことはならぬものです。」で終わりました。
明治4(1871)年、現在の黒川町と山田町に開墾の鍬を下ろした旧会津藩士団は、子どもたちの教育のため、黒川村に建設された入植者用住宅の一軒を開放して日進館を設立しました。入植後の生活を綴った『炉邊夜話』には、日進館の教育は「昔ノ寺子屋式」で運営され、教科書は「会津藩ニテ用ヒタル日進(新)館ノ教科書ヲ其ノ儘茲ニ用ヒ」たとあります。記録に残る教師は3名、書道を美濃部武四郎氏、読書を上嶋川兵衛氏、数学を二ノ宮俊蔵氏が無報酬で担当し、生徒は24名を数えました。
『余市文教発達史』に開校後不足していた教科書についての古老の回想が掲載されています。会津戦争に敗れ江戸での謹慎後、青森県に移って再興された斗南藩主松平家は余市日進館で教科書が不足していることを知って、それを案じ、「会津藩家中に在った日新館時代の漢書をできるだけとり寄せて贈ってくれ」て、その不足がおぎなわれたのだそうです。
沢町小学校の『創立百年』によると、日進館のほかにも武道修行のための講武館が黒川山田両村に1か所ずつ建てられて、剣道と柔術が教えられました。
『余市郷土誌』によると日進館は明治6年春に現在の開村記念碑の付近へ移転、黒川郷学所と改称しました。同年6月には開拓使浜中出張所の役人住宅が開放され、沢町方面にあった他の寺子屋と合併して余市仮郷学所となりました(『創立百年』)。両郷学所は開拓使の通達により教育所と名称を変更、黒川教育所は一時、浜中村の余市教育所に合併し後に再開しました。このふたつが後の沢町小、大川小、黒川小の前身となりました。
会津藩士が設立した日進館は、余市町の学校教育の礎となりました。
写真:余市教学所跡の石碑(ヌッチ川右岸)
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