余市町でおこったこんな話 その58「球春明けて」
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「積丹半島をまわって驚いたのは、野球競技の盛んになったことであった。野塚でも、入舸でも、ホロムイでもやっていた。~中略~ホロムイでは、ニシン、タラ、ホッケ、イカと名付けられる4チームが争い、イカ組が優勝した。」(「船の旅その他」『北の旅』)
明治9(1876)年には札幌農学校で「ベースボール」がさかんに行われ、明治30年代には函館中学(後の函館中部高校)や北海英語学校(後の北海高校)などに野球部が作られ、後志管内でも小樽中学校(後の小樽潮陵高校)に創部されます。
余市町では大正8(1919)年に硬式野球チーム、モンスターズが結成されました。
『ひびけ』第23号によれば、明治末に沢町小学校へ赴任してきた三浦校長先生がモンスターズの基礎を作り、「沢町の野球の祖」といわれました。チームは町内の社会人を中心に結成され、メンバーにはお風呂屋さんや理髪店、農場主、銀行員など色々な職業の人たちがいました。練習場所は大正4年に横濱竹蔵さんが円山に作ったグランドで、そこは町に寄贈されました。選手の一人で町内にあった北海道銀行(当時)の行員だった花輪さんは、沢町小学校の野球チームの胸のロゴを早稲田大学のWASEDAに倣って考案したそうです。
沢町小学校は戦前から全道大会に出場していました。大正13年から『北海タイムス』(後の『北海道新聞』)主催の全道の少年野球大会があり、札幌中島球場に全道14地区82校の予選から勝ちあがった代表校14校が対戦しました。
沢町小学校は後志代表として翌14年、15年、昭和4(1929)年と3回出場しましたが、決勝まで進んだ戦歴を持つ強豪の函館、十勝、胆振地区の代表と3回とも初戦であたり、惜敗しました。この大会は昭和3年の第5回大会から北海道樺太少年野球大会となり、大人たちの「高校野球なみの郷土愛」からけんかがおこるほどに盛り上がったそうです。
時代は下って大川小学校の昭和50年代の戦績もすばらしいものがありました。
強い子チームは昭和52年度に全道第3位、翌53年度準優勝、そしてついに54年度には室蘭地区代表を5対4で破って全国大会出場を決めたことは皆さんの記憶に新しいことと思います。
大人も盛り上がっていました。
昭和30年代の『広報よいち』を見ると、区会対抗の野球大会が盛んでした。たとえば昭和34年、第三回区会対抗野球大会が9月12日、13日に総合グランドで開催され、決勝は沢町一区会対富沢二区会の対戦で、5対4で沢町一区会が優勝しました。
翌35年にはより規模が大きくなったようです。参加は40チーム、地区予選は7イニング制(準決勝以降は9イニング)、地区予選は9月6日に始まって15日まで、優勝大会が9月18日に行われました。
結果は広報の10月1日号に大きく掲載されました。大川地区の優勝は大川六区会、黒川地区は黒川町四区会、中央地区は前年度優勝の沢町一区会、西部地区は富沢二区会でした。優勝大会決勝は5対1で大川六区会が優勝、準優勝は富沢二区会でした。この大会から優勝チームには町長杯が、準優勝チームには北海タイムス盾が授与されました。
翌年の決勝も因縁の対戦で、大川六区会が優勝、富沢二区会が準優勝でした。
写真:大川六区会優勝を伝える広報(昭和36年10月)
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