余市町でおこったこんな話 その57「開放記念碑(その2)駒谷農場と駒谷富士太郎」

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大正2(1913)年、中山農場が分割されて引き継がれました。余市町側の土地が駒谷富士太郎に、仁木町側は猪俣安造に売却されました。
黒川第7・八幡地区の『郷土誌』によると、中山農場の主人である中山喜六と富士太郎の父である三蔵はともに礼文島の漁家として活躍しました。すでに中山農場を経営していた喜六は農場の売却を父三蔵に相談、息子の富士太郎に農場経営を任せようとした三蔵が農場を買い取り、当時36才の富士太郎が農場主となって駒谷農場が誕生しました。
駒谷農場の事務所と富士太郎の邸宅は現在の八幡公園の西側の奥まったところに、また収穫された米を貯蔵する倉庫も現在の八幡神社の敷地に建てられました。邸宅横には富士太郎の趣味だった花壇が設けられ、当時は珍しかった外国の花が「何千鉢」も並んでいたそうです。
中山農場時代は米作が主力でしたが、明治時代の末頃になると地力の違いからか場所によってお米の収量に段々と違いが出てきていました。駒谷農場の小作民らは安定した人気があって高値で取り引きされていたリンゴに着目し、登街道沿いの両側の登川までのあいだに苗木を植えて様々な品種のリンゴを収穫しました。
昭和になって農場の経営は軌道に乗ったかに見えましたが、昭和16(1941)年の太平洋戦争の開戦、徴兵による労働力の不足、作物の減収や品質の低下に小作民は悩みました。有志が集まって幾度となく話し合った結果、農地の解放を願い出ることとなり、農場側との交渉の結果、全農地の解放を駒谷は了承しました。
念願の自らの農地を手に入れたかつての小作民らは共栄組合を組織して、その後も農業に励みました。
昭和31年に建立された開放記念碑は、共栄組合の方々の物心両面の協力によって建てられました。前回紹介したとおり、碑には駒谷農場の農地解放を富士太郎が快諾してくれたことと、保安林を無償で譲渡してくれたことに対する感謝の気持ちを表した140名を超える寄付者と建立世話人の名前が記されています。また小作人らが、半世紀を越えて永年の願いとしていた「希望ヲ達成」したことを後世に伝え、子孫永住の地とする決意も述べられています。
開放記念碑は、駒谷が無償譲渡した土地の一部で、かつての駒谷農場の中心部にあたる場所である八幡生活館前が選ばれました。昭和31年9月28日に行われた除幕式には富士太郎の息子である駒谷三男さんも出席され、餅も振舞われるにぎやかなものになりました。

写真:「駒谷農場事務所と住宅」(『郷土誌』(黒川第7・八幡地区郷土誌編纂会編))より

写真:「駒谷農場事務所と住宅」(『郷土誌』(黒川第7・八幡地区郷土誌編纂会編))より

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