余市町でおこったこんな話 その49「ヌッチ川と水車(その2)」
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前回に続いて、ヌッチ川の水車のお話です。
水車を作った瀧澤長之助さんは、水車の上流に水位を1.5メートルほど上げる小さなダムのような堰堤も作りました。この堰堤を近所の人たちは「とめ」と呼んでいました。「とめ」は長さ30メートル、幅20メートルの大きさで、水車が動いている時と、冬場に氷を作る時だけ使われて、氷を作る時には「こおりっぱ」とも呼ばれていました。
夏の間、そこは格好の遊び場で、夏休みには朝から泳ぎ、疲れれば川岸に寝転んで体を乾かして遊ぶ子どもがたくさんいました。また、海水浴から帰る途中、「とめ」で体を洗う子や、仕事終わりに石鹸と手ぬぐいを持って体の汚れを落とす大人もいました。
川の水はとてもきれいで、昭和29(1954)年に水車小路に水道が整備されるまでは近所の人々の飲み水にも利用され、「冬になると川面の氷に穴をあけて水を汲み、米をとぎ、洗濯をし」、「米をとぎにいくと、流したとぎ汁にウグイがたくさん集まってきた。黒くなるほど」でした(『ひびけ』第30号)。
アユ、ヤツメ、ウグイ、ゴリ、ゴダッペ、エビ、カニなどたくさんいた生物は、使い古した蚊帳でタモを作った子どもたちの獲物になり、バケツ一杯捕まえられて山分けにされました。
瀧澤さんのお宅はヌッチ川の山側、水車用の水路と川にはさまれて、水面からおよそ2.5メートルほどの高さにありました。製粉の工場も水面からおよそ1メートルの高さにあって、大雨や春先の雪解けの増水の時、家と工場は幾度となく孤立しました。数年に一度の大きな洪水はお盆を過ぎた頃と秋によく起こり、1メートル以上もの床上浸水になることがたびたびありました。
大雨が降って洪水が予想されると、数の子を洗う「はちごう」や「きつ」と呼んだ大きな水槽をいくつか家の中に運び入れてひっくり返して居間に置き、はずした床板と畳をその上に重ね、更にその上に家財道具を積み上げて備えました。
家の窓や戸はすべて開け放ちました。これは家の中まで押し寄せてくる川の水が滑らかに流れていくようにするためでした。
小さな子どもは親戚の家に預けられましたが、一家の大黒柱であるお父さんと長男は残って家を守りました。時には手伝いに来た人が逃げ遅れて残ったこともありました。
大水は昼夜を問わず襲いましたが、増水のピークは昼間だったことが多かったそうです。写真にあるようなひどい洪水の時は、積み上げた畳の上まで水が来るほどで、そうなると少し高い中二階に避難しました。
水が引くまでじっと辛抱している時、目の前を大人一人では動かすことが出来ないほどの大きさの臼や机が家の中を流れて行くのを見たこともありました。
ヌッチ川にかかる橋には今も「滝沢橋」の名が残っています。
写真:濁流の中の避難(瀧澤家 昭和29年)
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