余市町でおこったこんな話 その48「ヌッチ川と水車(その1)」

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沢町小学校のあけぼのプール側の角を曲がると、ヌッチ川へ向かう道があります。この道はかつて水車小路と呼ばれ、昭和34(1959)年まで水車小屋がありました。
今回と次回、2回にわたって17枚の原稿用紙につづられた思い出の記録「水車物語」を抜粋して紹介します。
水車小屋を作った瀧澤長之助さんは山形県出身、余市町にやってきた時期は定かでありませんが、明治の初めにはニシン漁をしていたようです。ほどなくして瀧澤さんが水車小屋を作ったのは、ニシン漁が終わった後の秋の仕事として穀物(粟、イナビキなど)の精白をするためでした。水車は精米や澱粉製造にも使われるようになり、持ち主も息子の兼松さんへと受け継がれました。水車の製作は専門の職人があたり、水車の軸の部分だけは鉄製でしたが、他の部分はすべて木製の高さおよそ3メートルほどの大きなものでした。
製粉をもっぱらにしていた頃は水車の両側、川の上下流それぞれに5臼ずつ、計2個の臼が配置されていました。昭和の初めになって澱粉製造をする頃には改造されて臼は5個に減りました。水車の力で上下して動く杵は木製で、何十年も昼夜休まず動いていても大丈夫だったとても頑丈なものでした。
精米はとても手間のかかる仕事でした。深い臼に約1斗2升(18キログラム)くらいの玄米をいれ、杵には重たい石を取り付けて3時間つきます。ついたものを臼からかき出して唐箕(ハンドルを回して起こした風で実と殻に分ける農機具)を使って糠を除きます。重い石をはずして2時間つき、糠を同じように除いてまた1時間つくのです。この作業は、昼夜の別なく続け、冬には凍ったしぶきを取り除くつらい作業でしたが、長い時間と手間をかけて精米されたお米はとてもおいしいご飯となりました。
澱粉製造がもっとも盛んだったのは昭和18年頃から10年間ほどの食料難の時代でした。
直径1メートル、長さ5メートルの内部がらせん構造になった筒型の水槽が水車の力でまわり、芋が転がって泥が落とされます。きれいになった芋はベルトに乗って上方の粉砕機に入り、細い網でこされて沈殿槽で分離されて澱粉になります。
『ひびけ』第21号に「水車小屋」という一文があります。
「秋になると大小さまざまな芋が取れる。大きいものは食用にするが小さいものはまとめて水車小屋に持っていってでん粉に変えてもらった。秋も深まる頃になると沢町方面のみでなく、大川、黒川方面からも馬車や荷車に積んだ芋が引きも切らずに水車小屋に運びこまれた。(~中略~)瀧澤さんの水車小屋は秋から冬にかけて、町の多くの人の食料を支えた大切な場所であり、水車小路はその通路だったわけである。」
この機械が動く一連の様子は、沢小の子どもらにとって興味深いものだったらしく、危ないから寄るなと怒られても飽きずに見ていた子どもがたくさんいたそうです(『ひびけ』同号)。
この水車小屋と家族に数年に一度、自然の猛威が襲います。
~続く~

写真:絵はがきにみえる水車小屋(明治40年代、中央上は余市神社)

写真:絵はがきにみえる水車小屋(明治40年代、中央上は余市神社)

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