余市町でおこったこんな話 その41「暁部隊」
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太平洋戦争中、日本陸軍運輸部船舶部隊、通称暁部隊と呼ばれた部隊が余市町に駐留していました。暁部隊は、陸軍の輸送を主な任務としましたが、輸送任務が終わると陸戦部隊としても戦いました。
昭和17(1942)年、戦域が拡大したために陸軍船舶隊の大改編が行われました。広島県宇品に船舶司令部がおかれ、内地台湾朝鮮半島、中国大陸、太平洋方面など5つの区域に分かれて船舶輸送司令部が置かれました。アメリカ軍の攻勢が進み、アラスカからアリューシャン列島、千島列島へと南下をはじめると第五司令部はフィリピンのダバオから小樽へと移り、樺太の大泊(サハリンのコルサコフ)と函館に拠点を置きました。
余市町にはそのうち暁6174部隊が駐留していました。上級武官はオオヤケとも呼ばれたニシン漁の親方の居宅などに分かれて滞在しましたが、多くの兵隊の宿舎は最初、余市港の近くにあった建物を利用し、その後水産試験場や入舟町へと何度か移転しました。
ある年の冬、入舟十字街のあたりで訓練が行われていたのを記憶している人が町内にいらっしゃいます。荷物を山と積んだ馬そりを皆でひき、その荷物の上に上官が仁王立ちになって号令をかけていたそうです。
21歳の新米二等兵の朴(パク)さんは、昭和19年8月、暁部隊に入隊するために余市に到着しました。翌20年4月には千島列島の色丹島へ配属され、捕虜としてロシアのハバロフスクで終戦を迎えました。
「日本の軍隊は楽しいこともあったんだよ。」
朴さんがいた頃の兵舎は水産試験場で、沢町小学校の校庭で新兵訓練を受けました。訓練は殴る、蹴るがあたりまえの厳しいものだったそうです。
新兵訓練が終わって外出ができるようになった頃、汽車の中でNさんという町内の人と出会いました。休みのたびにお宅へ招かれて食事をご一緒したり、外出できないときにはその家のお母さんや娘さんが兵舎まで煎った大豆を差し入れてくれたそうです。
ある頃から訓練が行われている校庭に、近所のお母さんたちが集まるようになりました。生徒らが見た厳しい訓練の様子が家族に伝わって、戦地にいる息子と目の前の新兵たちが重なったのではないかと朴さんは思ったそうです。
また映画上映の催しがあった時には、会場で「一つ星、一つ星」と言いながら襟の階級章が星ひとつの二等兵を探して、リンゴや煎った大豆をふるまうたくさんのお母さんがいました。
80歳を超えた朴さんは韓国でご健在です。今でも時々余市の人々がやさしくしてくれたことを懐かしく思い出すそうです。
(東京都内在住の映像作家、久保田桂子さんによる朴さんへの取材手記を参考にしました。久保田さんは余市町にも撮影と取材で訪れました。その映像は朴さんへ届けられるそうです。)
写真:訓練が行われた入舟十字街
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