余市町でおこったこんな話 その32「ニシンの神様」
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春告魚とも呼ばれたニシンは北海道日本海側に押し寄せて、積丹半島をはじめ沿岸各地に集落の基礎を築きました。
明治末以降、ニシンの好漁場は北海道南部から徐々に減少していました。その後も漁獲量の変動は続き、将来の展望が楽観できるものではなくなってきたことから、水産試験場はそれまでの研究成果の蓄積をもとに、年ごとの全漁獲量と地方別の漁況の科学的な予想を行い、昭和3(1928)年からは印刷物にして発表していました。この頃は、それまで揺らぐことのなかった漁獲を誇った岩宇地方でさえも漁獲皆無となった地域が多くなってきた時期でした。
漁況予想は水試の「看板仕事」でしたが、30年弱に満たない実施期間中の昭和10年以後は「前例のない」不漁の時期で、「水試の予想は有害無益」と厳しい批判を受け、幾年かは予想が中止されました(『ニシン』昭和47年から)。
後に「ニシンの神様」と呼ばれる平野義見氏は、明治42(1909)年、三重県桑名市に生まれ、昭和7年に農林省水産講習所を経て水試に勤務されました。着任当初は北千島でサケマス調査船に乗って、北海道の河川に遡上する秋鮭がどこから来るのかを主な目的とした調査に明け暮れていましたが、戦争の影響で調査海域が危険になったことと、ニシンの漁況予想を担当していた職員が退職したことから、同氏がニシン調査の担当者となりました。
漁況予想をすることとなった同氏は不安を感じていました。同氏の著書『ニシン』からは、当時を振り返る心境が窺えます。先輩から聞いた、「(漁況予想は)3年以上は引受けないのが利口だね。長くやっていると、いずれ大失敗して非難攻撃を受けることになるから」との言葉を思い出したことが記されています。
それまでの、人間関係に煩わされることのない比較的自由で冒険心を満足させる北洋でのサケマス調査の日々から、漁業者の生活に直結する漁況予想へと身を転じた不安は当然のものであったでしょう。
2か月足らずの期間に「大勝負」の決まるニシン漁は、「老人の曲がった腰も伸びるという興奮的、熱狂的な性質を持ち」、大漁の予想が当たってあたり前、その予想がはずれれば強烈な非難があるのは勿論のこと、不漁の予想も当然歓迎されませんでした。
同氏が漁況予想を担当されたのは、積丹半島以南の漁場にもニシンが戻ってきた時期でしたが、同時に昭和30年代はじめのニシン漁の終焉までの豊凶の波が激しい時期、言い換えれば予想の難しい時期でした。
~続く~
写真:ライフワーク「ニシン」を出した平野さん(昭和47年3月4日の新聞記事から)
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