余市町でおこったこんな話 その19「水泳界の彗星(その2)」
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昭和10(1935)年8月に行われた第2回日米対抗水上競技大会は、旧制余市中学校出身で当時、日本水泳長距離陣のエースとして注目されていた根上博選手が出場して開催されました。全国的には無名だった遅咲きのエースは立教大学入学後に頭角を現し、脚光を浴びるようになりましたが、その名声を確かなものにしたのは、この日米対抗でした。
大会は両国が種目ごとに獲得した総得点数により雌雄を決するもので、翌年のベルリンオリンピックの前哨戦と言えるものでした。両国はデッドヒートを繰り広げ、総合優勝は大会最後の競技、800m自由形リレーで決することとなりました。日本代表チームは遊佐、石原田、牧野、根上の4名、根上選手はアンカーとして出場しました。
この800m自由形リレーは実況中継を再現したレコードが制作されるほどの名勝負となりました。そのレースの様子をお伝えすると、第1泳者の日本、遊佐選手とアメリカのフィック選手はともに世界短距離界の最強と唄われた二人の戦いとなり、5mのリードを保って遊佐が第2泳者の石原田選手につなぎます。アメリカのマシオニス選手は石原田を猛追し、その差を3mまで縮めますが、石原田が逃げ切って第3泳者の牧野選手につなぎます。
3mのリードのままアンカー根上選手が飛び込みます。アメリカのアンカーはこの大会の400mと800mの自由形で根上選手と激突したメディカ選手でした。猛追撃したメディカはその差を1m半まで縮めましたが、最後まで根上選手のストロークは衰えず、逆にメディカが力尽き、結局8mの差をつけ日本が勝利しました。記録は8分52秒2の世界新記録(当時)で、総得点は日本36点、アメリカ27点で大会は日本の総合優勝で終わりました。
期待された昭和11年のベルリンオリンピックは、日本女子初の金メダリスト前畑選手(200m平泳ぎ)の活躍があった大会でしたが、根上選手は、400m自由形で5位という結果に終わりました。
前回紹介した根上選手の故郷への凱旋は、激戦を制した日米対抗後のことでした。帰郷の様子を伝える当時の新聞には、凱旋の様子とともに根上選手の成長の歴史が記されています。それによると根上少年は6歳ころには泳ぎを覚え、大川小学校2年の時に旭川市から転勤してきた八代先生の指導のもと、めきめきと上達しました。6年生になった年、町内に住んでいた北海道水上競技連盟の役員だった小原泰三氏との出会いが大きな転機となりました。
余市川河口で当時の最新泳法だったクロールで泳いでいた小原氏を大川橋から目撃した根上少年は、すぐに小原氏に教えを乞いクロール泳法を叩き込まれました。「超特急」根上選手の原点は、大川橋のたもと付近に川を横切った形でコースラインを張った55mの即席プールでした。
その20年後、余市高校水泳部が全道優勝を遂げた昭和30年の9月、根上氏が余市高校のプールに現れて選手と一緒に泳ぎました。当時それを目撃したある余高生は、40歳を越えた根上氏のきれいなフォームと余裕の泳ぎに世界の頂点に立った英雄の凄さを感じたそうです。
写真:「日米対抗」直後の4選手(左端が根上選手)
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