余市町でおこったこんな話 その9「4つのジャンプ台」
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長野オリンピックの齊藤、船木両選手の凱旋パレードに余市町が沸いてから、もう7年がたとうとしています。
彼らに先立つこと50年以上も前の昭和25(1950)年、余市高校の新田政夫氏が全日本スキー選手権大会の複合競技(少年組)において第2位の成績をおさめています。ここから余市出身選手の全国的な活躍が始まります。
大正14(1925)年、余市町立実科高等女学校に遠藤源四郎先生が着任しました。先生はスキーに情熱を傾け、ジャンプ台建設に奔走しました。『余市文教発達史』に遠藤先生が残した「スキー日誌」の記述があり、先生は昭和12年の日誌中に、町内のジャンプ台の適地を探しても見当たらないこと、ジャンプ台の図面をひいたことなどを記しており、この頃から関係者によるジャンプ台建設の動きがあったようです。
昭和16年夏には、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝氏が中心となり、余市高校裏手に後に竹鶴シャンツェとなるジャンプ台、桜ヶ丘シャンツェ(30m級)の建設が始まりました。設計は小樽市の秋野武夫氏によるもので、夏休み返上で作業を行なった余市高校生徒らの苦労が実り、同年11月29日に「台開き」が行なわれました。この「桜ヶ丘」の名称は、ヌッチ川沿いに桜並木があって、そこから見上げた丘を桜ヶ丘と呼んでいたことから名付けられ、昭和40年代前半まではこの名前が使われていたようです。
昭和22年、長田光男先生が東中学校長として着任しました。『余高五十年』には、「この時の指導者、長田光男(当時東中学校長)こそ“ジャンプ余市”の育ての親である。」とあり、『余市スキー発達史part1』にも、長田先生が「新田三兄弟」や笠谷選手を送り出したとの記述があります。
選手らが練習を重ねた桜ヶ丘シャンツェは北西からの風が吹いていて、その風の捉え方を会得したからこそ余市出身選手が国内外の大会で優秀な成績を残せたのだそうです。
昭和24年には役場前の通称「切通し」、国道229号線の浜中町寄りに、長田光男先生が設計し、ニッカウイスキーが資材を提供して15m級のジャンプ台が完成しました。当時のことを知る複数の方からお聞きした話では、小学生には30m級の桜ヶ丘シャンツェでは大きすぎるため、切通しのジャンプ台は小学生用に作られたとのことでした。また昭和10年代後半ころには、東中学校が建設される前にそこにあった通称「宮下の山」に自然の地形を利用した15m級のジャンプ台もあったそうです。
このお話で紹介した遠藤、長田両先生やニッカウヰスキーの竹鶴氏はじめ、現在に至る指導者らの熱意はもちろんですが、この70年余に作られた「宮下の山」、「切通し」、「桜ヶ丘」、現在の笠谷、竹鶴シャンツェと4か所のジャンプ台に吹いた風が余市のジャンパーを育てたのでしょうか。
写真:旧竹鶴シャンツェ
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